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本文を読む前に、BOØWY時代からソロ、そして2016年の「LAST GIGS」まで、氷室京介の歩みと記事全体の流れをつかみたい方におすすめです。
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先に音声を聴くことで、BOØWYからソロへと続く氷室京介の歩みと、この記事の要点をよりつかみやすくなります。
プロローグ――「氷室京介」という存在
1980年代、日本のロックは大きく姿を変えました。ロックバンドがライブハウスからホール、さらにはスタジアムやドームへ進出し、若者の音楽文化の中心へ入っていった時代。その流れを象徴する存在の一つが、BOØWYでした。
そのフロントに立っていたのが氷室京介です。
鋭さと艶を併せ持つ声、独特の言葉の乗せ方、ステージに立った瞬間に空気を変える存在感。多くの人にとって氷室京介は、楽曲だけではなく「歌う姿」まで含めて記憶に残るボーカリストではないでしょうか。

ただ、氷室の歩みをBOØWYだけで語ることはできません。バンド解散後はソロとして再出発し、1990年代以降も長いキャリアを築いていきました。
今回から始める「僕の勝手なminiBest」
今回は、これまでの「僕の勝手なBest10」「Best15」「Best20」などとは少し形を変え、「僕の勝手なminiBest」として7曲を選びます。
僕の中でBest10以上を組むのは、長い間かなり多くの曲を聴き込み、その中から順位をつけられるほど好きな曲が揃っているアーティストです。
一方、そこまで作品全体を聴き込んではいなくても、好きな曲なら7曲前後はすぐに挙がるアーティストも少なくありません。
そうした存在を「Best10を作れないから」という理由だけで取り上げないのは、少しもったいない。そこで新しく設けるのが、この「miniBest」です。
miniBestを加えることで、これまで以上に幅広いアーティストを、まとまった形で紹介できるようになります。好きな曲がそこまでの数に達しない場合は、これまで通り誕生日シリーズなどで一曲ずつ取り上げていきます。
最初に選んだのが氷室京介です。
今回はソロ作品だけでなく、BOØWY時代の楽曲も対象にしました。その理由は最後に触れるとして、まずはBOØWY以前から2016年の「ラスト・ギグス(LAST GIGS)」まで、その歩みを振り返ります。
第1章 BOØWY以前――ロックに人生を賭けるまで
群馬から音楽の世界へ
1960年10月7日生まれ
氷室京介は1960年10月7日生まれ。僕の2つ年下です。群馬で青春時代を過ごし、若い頃からロックへ強く惹かれていきました。
当時は、現在のように「ロックバンドで成功する」という道が身近に見える時代ではありません。それでも音楽の世界へ進み、やがて東京を舞台に活動するようになります。
布袋寅泰との合流
その後の音楽人生を考えるうえで欠かせない人物が、同じ群馬から出てきた布袋寅泰です。
氷室のボーカルと布袋のギター。この二つの強い個性が同じバンドに集まったところから、日本のロック史に大きな足跡を残す物語が始まります。

第2章 BOØWY――6人から4人へ、そして飛躍
1981年、6人編成でスタート
最初から「4人のBOØWY」ではなかった
BOØWYは1981年に結成されました。僕が大学を卒業し、社会人になった年です。
結成時は、後に広く知られる氷室京介、布袋寅泰、松井常松、高橋まことの4人だけではなく、ギターの諸星アツシ、サックスの深沢和明を加えた6人編成でした。
その後、諸星と深沢が脱退し、1982年秋から氷室、布袋、松井、高橋の4人となります。以後、この編成で解散まで活動を続けました。
『モラル(MORAL)』――荒々しさを残した出発点
1982年3月、ファースト・アルバム『モラル(MORAL)』でレコードデビュー。初期のBOØWYには、後年の研ぎ澄まされたサウンドとは異なる、パンクやニューウェーブにも通じる荒々しさがありました。

尖っていて、どこか危うい。その時期にライブハウスで試行錯誤を重ねた経験が、後のBOØWYにつながっていきます。
4人になって見えてきたBOØWYの輪郭
氷室の声と布袋のギター
4人編成になってからのBOØWYで、まず耳を奪われるのは氷室京介のボーカルと布袋寅泰のギターの関係です。
布袋の鋭角的でリズミカルなギターの上を氷室の声が疾走する。どちらかが一方を支えるというより、互いの個性がぶつかることで曲に独特の緊張感が生まれる。そこがBOØWYの面白さでした。
松井常松と高橋まことが作った骨格
その二人を支えたのが、松井常松のベースと高橋まことのドラムです。必要以上に音を詰め込まず、それぞれの役割を明確にすることで、ギターとボーカルが前へ出るための空間が生まれる。
派手さだけではなく、音の配置そのものが格好いい。僕がBOØWYを聴いていて感じる魅力の一つです。

1985年――『BOØWY』で見え始めた完成形
1985年に発表された3枚目のアルバム『BOØWY』は、バンドにとって大きな転機となりました。「ホンキー・トンキー・クレイジー」「バッド・フィーリング(BAD FEELING)」などが生まれ、初期の勢いを残しながらも、演奏とサウンドは一段と洗練されていきます。
ここからBOØWYは、ライブハウスで支持される存在から、より大きな舞台へ向かって加速していきました。
『ジャスト・ア・ヒーロー(JUST A HERO)』――1986年、決定的な飛躍
初の日本武道館へ
1986年に発表された4枚目のアルバム『ジャスト・ア・ヒーロー(JUST A HERO)』で、BOØWYは本格的なブレイクを迎えます。
同年7月2日には初の日本武道館公演を開催。そこで氷室が発した「ライヴハウス武道館へようこそ!」という言葉は、BOØWYを象徴するものとして今も語り継がれています。

『ビート・エモーション』から『サイコパス』へ
同年にはシングル「ビー・ブルー(B・BLUE)」、アルバム『ビート・エモーション(BEAT EMOTION)』を発表。1987年には「オンリー・ユー(ONLY YOU)」「マリオネット(MARIONETTE)」、アルバム『サイコパス(PSYCHOPATH)』へと続きます。
短期間にヒット作を重ね、BOØWYはロックファンの枠を越えて広く知られるバンドになっていきました。
絶頂期で選んだ解散
1987年12月24日、渋谷公会堂
BOØWYを語るうえで避けて通れないのが、その終わり方です。1987年12月24日、渋谷公会堂。人気絶頂期にあったバンドは、ここで解散を宣言しました。
人気が衰えて活動を終えたのではありません。まだその先を見たいと思わせる段階で幕を引いたことも、BOØWYを強烈な記憶として残した理由の一つなのでしょう。
東京ドーム「ラスト・ギグス」
翌1988年4月4日と5日、開業直後の東京ドームで「ラスト・ギグス(LAST GIGS)」が開催されました。2日分のチケット約10万枚はわずか10分で完売し、申し込みが殺到して文京区の電話回線がパンクするほどの社会現象となりました。

こうしてBOØWYは、巨大な人気を残したまま活動を終えました。
第3章 ソロ・氷室京介――BOØWYの続きを選ばなかった
「エンジェル(ANGEL)」――1988年、新しい出発
BOØWY最後のステージから約3か月後、氷室京介は1988年7月21日、「エンジェル(ANGEL)」でソロデビューします。
ここから始まったのは、「BOØWYを一人で続ける」活動ではありませんでした。バンドという枠を離れ、自らのボーカルとメロディを軸に、新しいキャリアを築いていきます。
ロックだけに閉じなかった表現
ソロ作品ではロックの鋭さを保ちながら、バラードやポップな楽曲にも表現の幅を広げました。BOØWYという強烈なイメージを背負いながら、その再現だけに留まらない。そこにソロ・氷室京介の面白さがあったように思います。
1990年代――ソロアーティストとしての確立
「キス・ミー」と『メモリーズ・オブ・ブルー』
1992年のシングル「キス・ミー(KISS ME)」はミリオンセールスを突破。翌1993年のアルバム『メモリーズ・オブ・ブルー(Memories Of Blue)』も150万枚を超えるセールスを記録しました。

BOØWY解散から約5年。ここに至って氷室京介は、「BOØWYの元ボーカリスト」という説明だけでは収まらない、独立したソロアーティストとしての地位を確かなものにしました。
第4章 ロサンゼルスへ――環境を変えて音楽を作る
1997年、活動拠点をアメリカへ
1997年、氷室京介は活動拠点を米国ロサンゼルスへ移しました。その後も楽曲制作と日本でのライブ活動を続けていきます。
すでに日本で確かな地位を築いていながら、活動する環境そのものを変える。その歩みからは、一つの場所やスタイルに留まらず、自分の音楽を追い続ける姿勢が感じられます。
BOØWYの「Ø」に込められた「何処にも属さない、誰にも似たくない」という意味。それはバンド名にまつわる言葉ですが、結果として、その後の氷室の歩みにもどこか重なって見えます。

BOØWYの曲と再び向き合う
2004年「トゥエンティファースト・センチュリー・ボウイズ・ヴァーサス・ヒムロ」
2004年8月22日、東京ドームで「トゥエンティファースト・センチュリー・ボウイズ・ヴァーサス・ヒムロ(21st Century Boøwys vs HIMURO ~An Attempt to Discover New Truths~)」を開催。BOØWY時代とソロの楽曲が、一つのステージで披露されました。
解散後、独自の道を歩いてきた氷室が、かつてのバンドの曲を否定することなく、自らのキャリアの一部として再び歌う。BOØWYとソロの両方を知るファンにとって、象徴的な公演だったと思います。
2011年、全編BOØWY楽曲の東京ドーム
2011年6月11日と12日には、東日本大震災復興支援チャリティライブ「ギグ・アット・トーキョー・ドーム “ウィー・アー・ダウン・バット・ネヴァー・ギヴ・アップ!!”(GIG at TOKYO DOME “We Are Down But Never Give Up!!”)」を開催しました。
この公演では全編をBOØWYの楽曲で構成。解散から20年以上を経て、氷室自身の声でその曲たちが東京ドームに響きました。

第5章 2016年――もう一つの「ラスト・ギグス」
耳の不調とライブ活動の無期限休止
2014年、氷室は耳の不調によって自分が納得できるパフォーマンスを続けることが難しくなっていると明かし、ライブ活動を休止する意向を示しました。
4大ドームツアー「キョウスケ・ヒムロ・ラスト・ギグス」
2016年4月から5月にかけて、4大ドームツアー「キョウスケ・ヒムロ・ラスト・ギグス(KYOSUKE HIMURO LAST GIGS)」を開催。 大阪、名古屋、福岡、東京で計7公演を行い、約30万人を動員しました。
最終日は5月23日の東京ドーム。BOØWY時代とソロの楽曲を織り交ぜて全35曲を歌い、長く続けてきたライブ活動に区切りをつけました。
1988年と2016年――二つの「ラスト・ギグス」
1988年、BOØWY最後の公演に掲げられた「ラスト・ギグス」。そして28年後、氷室京介自身がライブ活動を休止するツアーにも、同じ言葉が使われました。
BOØWYを終えてソロへ進み、28年後にもう一度「ラスト・ギグス」へ辿り着く。この言葉の重なりが、氷室京介の音楽人生を一本の線につないでいるように、僕には感じられます。

僕の勝手なminiBest――BOØWYとソロを分けない理由
BOØWYは4人で作ったバンド
今回の「僕の勝手なminiBest」では、氷室京介のソロ作品とBOØWY時代の楽曲を同じランキングの中から選びます。
もちろん、BOØWYを「氷室京介のバンド」とだけ捉えるつもりはありません。布袋寅泰のギター、松井常松のベース、高橋まことのドラム。そして6人編成だった初期を含め、複数の個性が重なって生まれたバンドです。
それでも僕には一つの流れとして聞こえる
一方で僕自身は、BOØWY時代とソロを完全に別々のものとして聴いてきたわけでもありません。その中心に氷室京介の声があることで、二つの時代は僕の中で自然につながっています。

ですから今回は、BOØWYそのものの功績を評価するのでも、ソロとの優劣を比べるのでもありません。僕が「氷室京介の歌」として聴いてきた曲の中から、好きな7曲を選ぶ。それだけを基準にしました。
まとめ――BOØWYからソロへ、そして2016年まで
1981年のBOØWY結成から、ライブハウス、日本武道館、東京ドームへ。人気絶頂期での解散を経て、1988年にはソロとして新たな道を歩き始めました。
1990年代にはソロアーティストとして確かな地位を築き、1997年には活動拠点をロサンゼルスへ移します。その後、BOØWY時代の楽曲とも再び向き合いながら活動を続け、2016年の「ラスト・ギグス」でライブ活動に一区切りをつけました。
こうして振り返ると、僕が氷室京介に感じるのは、過去を切り捨てるのでも、そこに留まり続けるのでもない姿勢です。BOØWYという歴史を背負いながら、ソロとして別の時間を積み重ねてきました。

では次の記事から、「僕の勝手なminiBest【氷室京介編】」を始めます。
BOØWYか、ソロかではありません。
僕が好きな「氷室京介の歌」。
その一点だけで、7曲を選びました。


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