- 🎧 この記事を音声で楽しむ
- プロローグ――ビートルズの先にも続いた、もう一つの音楽史
- 形成期(1942–1960)――リヴァプールで育った音楽少年
- ビートルズ時代(1960–1970)――世界を変えた10年間
- 再出発(1970–1971)――『McCartney』と『RAM』
- ウイングス結成(1971–1973)――新人バンドとしての出発
- 飛躍(1973–1977)――ウイングスが世界的バンドになるまで
- 転換期(1978–1989)――ウイングスの終幕とソロへの回帰
- 再評価と原点回帰(1989–2009)
- 2013年――福岡で果たした33年越しの思い
- 現在まで続く創作――『NEW』から『McCartney III』へ
- ポール・マッカートニーの音楽を形作る三つの力
- まとめ――何度でも音楽を始める人
- 次回から始まる「僕の勝手なBest15【ポール・マッカートニー編】」
🎧 この記事を音声で楽しむ
この記事の要点を、日本語と英語のナレーションで手軽に確認できます。
本文を読む前に、ポール・マッカートニーの歩みと、これから始まるBest15の全体像をつかみたい方におすすめです。
🎵 日本語ナレーション
この記事の内容を日本語で紹介する音声です。
🎶 English Narration
This audio introduces the article in English.
先に音声を聴くことで、ビートルズ解散後にポールが築いた音楽史と、Best15の見どころをつかみやすくなります。
プロローグ――ビートルズの先にも続いた、もう一つの音楽史
僕の勝手なBest15シリーズ。今回は、ポール・マッカートニー編です。
ポール・マッカートニーの名を聞けば、多くの人が最初にザ・ビートルズを思い浮かべるでしょう。ジョン・レノンと数々の名曲を書き、歌い、ベースを弾き、ピアノやギター、ドラムまで演奏したポールは、20世紀のポピュラー音楽を変えた中心人物の一人でした。

しかし、彼の音楽人生はビートルズの解散で終わりませんでした。
1970年以降、ポールは一人で録音を始め、ウイングスを結成し、再び世界的な成功を収めます。その後もロック、バラード、電子音楽、クラシックへ活動領域を広げました。
『恋することのもどかしさ』『マイ・ラヴ』『死ぬのは奴らだ』『バンド・オン・ザ・ラン』『ジェット』『心のラヴ・ソング』『カミング・アップ』『ノー・モア・ロンリー・ナイツ』……。
ビートルズ時代の曲を除いても、15曲では収まりきらないほどの代表曲があります。
本ブログでは、いずれザ・ビートルズのBest編も制作する予定です。その際には、ジョン、ジョージ、リンゴとの関係を含め、ビートルズ時代のポールを詳しく取り上げます。今回はソロ作品とウイングスの楽曲を中心に、その長い歩みをたどります。
形成期(1942–1960)――リヴァプールで育った音楽少年
音楽のある家庭と母との別れ
ジェイムズ・ポール・マッカートニーは、1942年6月18日、リヴァプールに生まれました。
父ジムは仕事のかたわら、若い頃にジャズ・バンドでピアノやトランペットを演奏していました。家にはピアノがあり、ポールは日常の中で音楽に親しみます。
母メアリーは助産師として働いていましたが、ポールが14歳だった1956年、乳がんで亡くなりました。後年、夢の中に現れた母の言葉が「Let It Be」につながったという逸話はよく知られています。
ジョン・レノンとの出会い
1957年7月、ポールはリヴァプール郊外の教会祭で、ジョン・レノンが率いるクオリーメンの演奏を見ました。僕が生まれる1年前のことです。
演奏後、共通の友人を通じてジョンを紹介されたポールは、ギターを手に取り、当時のヒット曲を披露します。正確な演奏と豊富な音楽知識を認められ、まもなくクオリーメンへ加わりました。
ここから、ポピュラー音楽史を代表する作曲コンビ、レノン=マッカートニーの関係が始まりました。

ビートルズ時代(1960–1970)――世界を変えた10年間
作曲家、歌手、ベーシストとして
1960年代、ポールはジョン、ジョージ、リンゴとともにザ・ビートルズの一員として世界的な成功を収めました。
親しみやすい旋律、柔軟な歌声、曲の中を自在に動くベース。そして必要に応じてピアノ、ギター、ドラムも演奏する多才さ。活動後期には、録音やアレンジにも強く関わるようになります。
ただし、ビートルズ内部の関係や各作品の詳細は、将来制作するビートルズBest編へ譲ります。
解散後に訪れた喪失
1970年、ビートルズは事実上の解散を迎えました。 僕が中学生になった年です。
ポールは世界最大のバンドだけでなく、少年時代から曲を書き、演奏し、競い合ってきた仲間との日常も失います。解散を巡る対立や法的問題も重なりました。
それでも彼は音楽を手放さず、自宅を中心に一人で複数の楽器を演奏し、新しい作品を作り始めます。

ビートルズの後に、何を作るのか。
その問いから、ポール・マッカートニーの第二章が始まりました。
再出発(1970–1971)――『McCartney』と『RAM』
自宅録音から生まれた『McCartney』
1970年、ポールは初のソロ・アルバム『McCartney』を発表しました。
多くの楽器を自分で演奏し、家庭的な環境で録音した作品です。短いスケッチのような曲も多く、ビートルズ後期の緻密なアルバムとは異なる、私的で簡素な音が並びました。

発表当時の批評は厳しいものでしたが、「Maybe I’m Amazed」は現在、ソロ時代を代表する名曲として評価されています。
リンダに向けた歌
「Maybe I’m Amazed」は、ビートルズ解散期に自分を支えた妻リンダへの感謝を歌った作品です。力強い歌声とピアノ、感情を押し上げるギターが、個人的な思いを普遍的なラブソングへ変えました。
後年評価を高めた『RAM』
1971年には、リンダとの連名で『RAM』を発表します。
ロック、フォーク、コーラス、音響的な遊びが次々と現れ、一曲の中でも場面が大きく切り替わります。発表時の評価は分かれましたが、現在ではポールの自由な発想を示す重要作として再評価されています。
ウイングス結成(1971–1973)――新人バンドとしての出発
仲間と育てる新しいグループ
1971年、ポールはリンダ、元ムーディー・ブルースのデニー・レインらとウイングスを結成します。
リンダは本格的なバンド経験を持っていなかったため、彼女の参加には批判も起こりました。それでもポールは、著名な演奏家を集めた豪華バンドではなく、仲間と一緒に成長するグループを選びました。
大学を巡った最初のツアー
1972年、ウイングスは英国各地の大学を巡るツアーを行いました。かつて世界中を熱狂させたポールが、小規模な会場から再出発したのです。

「マイ・ラヴ」と「死ぬのは奴らだ」
初期作『ワイルド・ライフ』は粗削りで厳しく評価されましたが、1973年の『レッド・ローズ・スピードウェイ』から『マイ・ラヴ』が大ヒットし、ウイングスは初の全米1位シングルを手にします。
同年には、映画『007 死ぬのは奴らだ』の主題歌『死ぬのは奴らだ』も発表しました。静かなピアノで始まり、オーケストラを伴うダイナミックな展開へ移る構成は、ポールの卓越した作曲力を象徴する一曲です。
飛躍(1973–1977)――ウイングスが世界的バンドになるまで
三人で完成させた『Band on the Run』
1973年、新作録音の直前に、ギタリストのヘンリー・マカロックとドラマーのデニー・シーウェルが脱退しました。
残った中心メンバーは、ポール、リンダ、デニー・レインの三人です。彼らは予定を変えず、ナイジェリアのラゴスへ向かいました。録音環境や治安、ポールの体調など、制作は順調ではありませんでしたが、ポールはドラムも担当してアルバムを完成させます。

こうして生まれた『Band on the Run』は、ビートルズ解散後のポールを象徴する作品となりました。
閉塞から自由へ向かう音楽
表題曲は、異なる三つの音楽的場面をつなぎ、閉じ込められた状態から自由へ向かう物語を描きます。
「Jet」の力強さ、「Bluebird」の軽やかさ、「Let Me Roll It」の重いギター、終曲「Nineteen Hundred and Eighty Five」の高揚。アルバム全体が一つの冒険のように進みます。
黄金期と「Mull of Kintyre」
1975年の『Venus and Mars』では、巨大な会場を意識した華やかなロックを展開しました。翌年の『Wings at the Speed of Sound』からは、「Let ’Em In」と「Silly Love Songs」が大ヒットします。
「Silly Love Songs」は、愛の歌ばかり書くという批判に、明るく精密なポップスで答えた曲です。世界ツアーも成功し、ウイングスは1970年代を代表するグループへ成長しました。

1977年の「Mull of Kintyre」は、スコットランドの風景と土地への愛情を歌った作品です。壮大なロックと民謡のような歌。その両方を作れることが、ポールの幅広さを示しています。
転換期(1978–1989)――ウイングスの終幕とソロへの回帰
変化を探った最後のアルバム群
1978年の『London Town』では、フォーク的な感触とシンセサイザーが共存しました。1979年の『Back to the Egg』では硬質なロックやニュー・ウェイヴへ接近しますが、メンバー交代が続いたウイングスは、次第にまとまりを失っていきます。
1980年――見ることができなかった武道館公演
1980年1月、ポールはウイングスの日本公演のため来日しました。
ところが、成田空港で荷物から大麻が発見され、逮捕されます。予定されていた日本公演はすべて中止となりました。
実は僕も大学時代、東京・日本武道館公演のチケットを購入していました。ポールを初めて自分の目で見られると期待していただけに、中止を知ったときのショックは大きなものでした。
その後、ウイングスの活動は止まり、1981年に解散します。この年、僕は社会人となります。
『McCartney II』から『Tug of War』へ
1980年、ポールはほぼ一人で制作した『McCartney II』を発表しました。シンセサイザーや電子的なリズムを大胆に用いた「Coming Up」は、従来のバンド・サウンドとは異なる方向を示します。
同年12月、ジョン・レノンが殺害されました。その悲しみは、1982年の『Tug of War』に収められた「Here Today」へ結実します。

1980年代には、スティーヴィー・ワンダーとの「Ebony and Ivory」、マイケル・ジャクソンとの「Say Say Say」など、世代を越えた共演も行いました。「No More Lonely Nights」は、この時期を代表するバラードです。
再評価と原点回帰(1989–2009)
過去を自分の歴史として受け入れる
1989年の『Flowers in the Dirt』では、エルヴィス・コステロとの共同作曲から「My Brave Face」などが生まれました。
同年に始まったワールド・ツアーでは、ビートルズ時代の曲も本格的に演奏します。ポールは、ビートルズ、ウイングス、ソロという三つの時代を、自分の一つの歴史としてステージに並べ始めました。
『Flaming Pie』とリンダとの別れ
1997年の『Flaming Pie』は、歌と演奏の核を重視した作品です。翌1998年、妻リンダが乳がんで亡くなります。
リンダは人生の伴侶であると同時に、ビートルズ解散後のポールを支え、ウイングスをともに始めた音楽上の仲間でした。

2005年の『Chaos and Creation in the Backyard』では、多くの楽器をポール自身が演奏しました。また、ザ・ファイアマン名義の電子音楽、オラトリオやバレエ音楽などにも挑戦しています。
2013年――福岡で果たした33年越しの思い
71歳のポールが立っていたステージ
2013年11月15日(金)、僕は福岡ヤフオク!ドーム、現在のみずほPayPayドーム福岡で、ポールのコンサートを観ました。
当時、ポールは71歳でした。しかし、ステージ上の姿から年齢を強く意識させられることはありませんでした。ビートルズ、ウイングス、ソロ時代の曲を歌い、ベース、ギター、ピアノを持ち替えながら公演を進めます。

長年レコードやCDで聴いてきた曲が、本人の演奏によって巨大な会場に鳴り響く。その光景に、僕は大きな感動を覚えました。
大学時代から続いていた時間
1980年、僕は武道館公演のチケットを手にしながら、ポールを見ることができませんでした。それから33年後、ようやく目の前のステージにポールが立っています。
大学時代に果たせなかった思いを、30数年を経て実現できた。僕には、そんなリベンジを果たしたように感じられました。
あの日の感動は、いまでも鮮明に覚えています。
現在まで続く創作――『NEW』から『McCartney III』へ
若い世代と作った新しい音
2013年の『NEW』では、複数の若いプロデューサーと組み、現代的な音作りを取り入れました。
2018年の『Egypt Station』は、全米アルバム・チャートで1位を獲得します。ビートルズ解散から半世紀近くを経ても、新作によって結果を残しました。
三度目の一人録音
2020年に制作された『McCartney III』では、1970年の『McCartney』、1980年の『McCartney II』と同じく、多くの楽器を自分で演奏しました。
過去の音を再現するのではなく、荒々しいロック、短い小品、繊細なバラードを並べ、80歳を前にしても衰えない創作意欲を示します。

ポール・マッカートニーの音楽を形作る三つの力
記憶に残るメロディー
ポール最大の特徴は、一度聴いただけで覚えられる旋律を生み出す力です。短いフレーズやコーラス、ベースの動きにも明確なメロディーがあります。
歌うように動くベース
ポールのベースは、リズムを支えるだけではありません。ヴォーカルとは異なる旋律を奏でながら、曲全体を前へ進めます。
甘いバラードと荒々しいロック
美しいバラードだけでなく、声を張り上げるロック、フォーク、ファンク、ディスコ、電子音楽まで、作品の幅は非常に広いものです。
親しみやすい旋律を作るポップ職人と、予想外の音を試す実験家。その二つの顔が、同じ一人の中にあります。
まとめ――何度でも音楽を始める人
ポール・マッカートニーの歴史を振り返ると、何度も新しく始めてきた姿が見えてきます。
ビートルズ解散後には一人で『McCartney』を作り、次にウイングスを結成しました。ウイングスが終わると再びソロへ戻り、他の世代の音楽家と共演し、電子音楽やクラシックにも挑戦します。

ポールの強さは、常に同じ水準の成功を収めることではありません。評価が分かれる作品や大胆な実験も含め、作ることを止めない点にあります。
その歩みが続いたからこそ、僕も1980年の失望を越え、2013年の福岡でポールのステージを見ることができました。
次回から始まる「僕の勝手なBest15【ポール・マッカートニー編】」
今回のランキングでは、1970年以降のソロ作品とウイングスの楽曲を同じ対象として選びます。ビートルズ時代の曲は含めません。
初期ソロ、ウイングスの試行錯誤、『Band on the Run』以降の黄金期、1980年代の実験、そして成熟期の作品まで、すべてが選考対象です。
「Maybe I’m Amazed」は何位に入るのか、入らないのか?『Band on the Run』からは何曲が選ばれるのか。「My Love」「Live and Let Die」「Jet」「Silly Love Songs」「No More Lonely Nights」は、どの位置に置かれるのか。
ビートルズの曲を一曲も使わなくても、15曲では足りない。
2013年の福岡公演で受けた感動も思い出しながら、僕の勝手なBest15を始めます。


音楽ファン同士の交流・リクエストはこちら / Connect & Request Songs Here