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第2位は、「過ぎてしまえば」です。
「過ぎてしまえば」は、阿久悠が作詞、森田公一が作曲・編曲を手がけ、森田公一とトップギャランが1977年に発表した作品です。1977年9月21日発売の同名アルバム『過ぎてしまえば』では、冒頭を飾る表題曲として収録されています。
前年の「青春時代」が大きな成功を収めたあとに発表された作品ですが、こちらは青春を輝かしい季節として正面から描きません。
美しくも豊かでもなく、自分の生き方に確信を持てない若者から物語が始まります。

自分自身への苛立ちがあり、危うい恋愛があり、人を傷つけ、自分も傷ついた時間がある。それらを成功や成長の物語へ回収するのではなく、最後にはすべて同じ言葉で受け止めてしまいます。
当時が美しかったのではない。
通り過ぎたあとで振り返ったとき、あれほど不格好だった日々まで違って見えてくる。
そこが「過ぎてしまえば」の核心に思えます。
超訳
美しくも、豊かでもない。
迷い、傷つき、孤独に立ち尽くした日もあった。
けれど、そんな不器用な青春さえ、時がそっと包んでいく。
振り返れば、過ぎ去った日々はみな美しい。
💡 あわせて読みたい: 公式の原曲歌詞はこちら (外部サイトへ移動します)
まずは、森田公一が歌う「過ぎてしまえば」をお聴きください。
(※公式動画ではないため、画像にリンクさせています。画像をクリックしてお聴きください)

クレジット
🎥 森田公一とトップギャラン「過ぎてしまえば」
作詞:阿久悠 作曲・編曲:森田公一
出典:YouTube「過ぎてしまえば 森田公一とトップギャラン」
【2行解説】
若さゆえの迷いや孤独、傷ついた日々を、過ぎ去った時間の中から静かに見つめ直す一曲。
青春の苦さまで、長い歳月の向こうで懐かしい記憶へ変わっていく感覚を描いています。
「美しい青春」ではなく、「美しくなった青春」
青春を題材にした歌には、夢、恋、友情、未来といった言葉がよく似合います。若さそのものに価値があり、その季節を生きていること自体が輝いている。そんな描き方も少なくありません。
しかし「過ぎてしまえば」は、その方向へ進みません。阿久悠が描く若者は、もっと中途半端で、危なっかしく、自分自身を持て余しています。
固い林檎をかじる若者
第一の場面で印象に残るのが、固い林檎をかじる若者です。ここには、夢を追って颯爽と歩く青年の姿はありません。「このままではいけない」と思いながら、何をすればいいのかまでは分からない。
僕は、この林檎がとても効いていると思います。大きな事件を持ち出さなくても、サクサクとかじるという小さな動作だけで、行き場のない気分が見えてくるからです。

何者にもなれていない。しかし、今のままで満足しているわけでもない。その宙ぶらりんな状態は、若さの一つの実像でしょう。
恋愛にも救いを求められない
第二の場面では、さらに危うい方向へ進みます。夢さえ下降していくように感じ、女性との関係にも深く入り込んでいく。しかし、そこにも安らぎはありません。
二人とも、今の関係がよいとは思っていない。それでも離れられず、背中合わせのまま相手の声を聞いている。恋愛を甘い思い出として扱わず、互いに出口を見つけられない関係として置いたところに、阿久悠らしい生々しさがあります。

そして青春の「光」は遠い
第三の場面になると、視界は個人から青春そのものへ広がります。
ここで描かれる若さには、明るい側面よりも影の方が身近にあります。やけを起こし、人とぶつかり、目的もなく歩く。後年なら避けられたかもしれない失敗を、その頃は真正面から受けてしまう。
第一の場面は自分自身、第二は恋愛、第三は人との関係と青春全体。三つの場面は別々の角度から若さを描きながら、最後には同じ場所へ着地します。
この三段構成があるからこそ、「過ぎてしまえば」という題名が単なる懐古では終わらないのだと思います。
なぜ、つらかった日々まで美しく見えるのか
この曲を聴いていると、僕は題名そのものについて考えさせられます。
時間が経ったからといって、起きた出来事が変わるわけではありません。失敗は失敗ですし、傷つけた事実も消えない。それなのに、何十年かあとから眺めると、当時とは違う感情で思い出せることがあります。
変わるのは過去ではなく、見る側の自分
若い頃には深刻だったことが、長い年月のあとでは人生の一場面として見える。あの失敗が別の道につながったことや、あの別れのあとにも生活が続いていたことを、現在の自分は知っています。
過去の出来事が書き換えられるのではなく、それを見る側に、その後の人生が加わっているのです。

苦しかった事実を否定せず、それでも「あの頃も自分だった」と受け止められる。「過ぎてしまえば」の「美しい」には、そんな感覚が含まれているように僕には聞こえます。
「みな」という一語の強さ
もう一つ気になるのが、一部の思い出だけを選んでいないことです。
楽しかった日だけではない。孤独も迷いも寂しさも含めて、過ぎた日々を一つのまとまりとして見つめています。
都合の悪い記憶を消して青春を美談にするのではなく、失敗まで含めて自分の時間だったと認める。だから、この曲には甘い郷愁だけでは説明できない説得力があります。
1977年という時代に生まれた歌
「過ぎてしまえば」が発表された1977年は、森田公一とトップギャランにとって「青春時代」の大ヒットを経た直後にあたります。同名アルバムには「別離の雨傘」「僕の失敗」「感傷時代」「新宿ラブ・ストーリー」など全10曲が収録され、その最初にこの曲が置かれました。
僕が高校を卒業し、東京の大学へ進学した年でもあります。その頃と重なる楽曲です。

しかも表題曲である「過ぎてしまえば」は、アルバムの第1曲に置かれています。若さを振り返るこの歌から作品全体が始まるという曲順にも、僕は惹かれます。
「青春時代」とは違う場所から青春を見る
森田公一とトップギャランを代表する「青春時代」と並べてみると、その違いがよく分かります。
「青春時代」が青春という季節のただ中にある心の揺れを捉えた作品だとすれば、「過ぎてしまえば」は、その季節から離れた場所に立って、かつての自分を振り返っています。
同じ青春を扱いながら、視点の置き場所を変えたことで、まったく異なる手触りの歌になりました。僕には今、「過ぎてしまえば」の方が身近に聞こえます。それは曲の優劣ではなく、聴いている僕自身が立っている場所の違いなのでしょう。
森田公一のメロディーと編曲
この詞を必要以上に重くしていないのが、森田公一の作曲と編曲です。
題材だけを取り出せば、かなり感傷的な歌になっても不思議ではありません。しかし実際には、悲劇を大きく演出する方向へは進まず、親しみやすい旋律の中を言葉が自然に流れていきます。
感情を決めつけない歌声
森田公一自身の歌唱も、この作品によく合っています。
声を張り上げて悲しさを訴えるのではなく、昔の出来事を一つずつ確かめるように歌う。そのため聴き手は「ここで泣くべきだ」と誘導されず、自分自身の記憶を重ねることができます。
僕には、人生を達観した人が昔を語っているというより、「あの頃の自分は、ずいぶん不器用だったな」と少し苦笑している男の声に聞こえます。

その温度だからこそ、最後に残る言葉も大げさにならない。阿久悠の詞と森田公一の旋律、そして歌声の距離が、うまく一致しています。
この男は、いつの自分を振り返っているのだろう
「過ぎてしまえば」を聴いていると、僕は一つ気になることがあります。
この歌を語っている男は、いったい何歳くらいなのだろう。
もちろん、歌詞には年齢を特定できる言葉はありません。ここからは僕自身の解釈ですが、描かれている過去の姿からは、18歳から20代前半くらいの若者が浮かびます。
まだ何者にもなれていないことへの苛立ちがあり、先の見えない不安を抱えている。恋愛では相手との距離をうまく取れず、人とぶつかれば傷つけ合ってしまう。経験を積んだ大人というより、自分の感情を扱いきれない若者の姿です。
青春から、どれほど離れた場所にいるのか
では、それを振り返っている現在の男は何歳なのか。
僕には、老人が半世紀も前の青春を回想しているようには聞こえません。一方で、20代の終わりに数年前を振り返っていると考えるには、過去との距離が少し近すぎる気がします。
あえて人物像を思い描くなら、20歳前後の自分を、30代半ばから40歳くらいになった男が振り返っている。僕にはそのくらいの距離感がしっくりきます。

十数年、あるいは二十年ほどが過ぎているからこそ、当時は深刻だった出来事を、もう少し遠くから眺められる。若い頃の自分を否定するのでも、必要以上に美化するのでもなく、「あの頃はああだった」と受け止められる年齢です。
そして、今の僕にはさらに遠い歌になった
ここで面白いのは、歌の中の男だけでなく、聴いている僕にも時間が流れていることです。
1977年にこの曲が発表された頃と、今では、僕自身が立っている場所もまったく違います。若い頃なら、過去を振り返る男の歌として聴いていたでしょう。しかし今は、その男が振り返っている青春も、その男自身の年齢も、すでに僕にとっては遠い時間になっています。
歌の中では、大人になった男が青春を振り返る。そして今の僕は、その男よりさらに遠い場所から同じ青春を眺めている。
一つの歌の中に、若かった自分、振り返る男、そして今それを聴く僕という、三つの時間が重なってくる。「過ぎてしまえば」という題名が、今の僕には以前よりずっと大きな言葉に聞こえるのは、そのためなのかもしれません。
終わりに
「過ぎてしまえば」に登場する若者は、英雄でも成功者でもありません。
自分に苛立ち、恋愛で道を見失い、人とぶつかり、ときには行き先も決めず歩いている。青春の最中にいる本人にとって、それは決して輝かしい毎日ではなかったでしょう。
阿久悠は、そんな若者を後年の視点から見つめます。そして森田公一は、その言葉を過度に感傷的にせず、一つの歌として運んでいきます。

僕がこの曲を聴いて思うのは、昔へ戻りたいということではありません。
戻る必要はないからこそ、昔をそのまま眺められる。
1977年、僕自身も新しい生活へ踏み出したばかりでした。その頃には見えなかったものが、今では見える。反対に、あの頃にしか見えなかったものもあったのでしょう。
「過ぎてしまえば」は、青春を懐かしむだけの歌ではありません。長い時間を隔てて昔の自分と向き合ったとき、その人には過去がどんな姿に見えるのか。そんな問いを、今もこちらに投げかけてくる一曲です。

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