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さだまさし:僕の勝手なBest15ー第13位は「セロ弾きのゴーシュ」です。
さだまさしのBest13位は、「セロ弾きのゴーシュ」です。楽曲としてはさだまさし”あるある”という気がしないでもないですが、歌詞を良く聴くと実に切ない曲なんですよね。
はい、僕はこの切なさに弱いのです。じっくり聴くには大変良い曲だと思います。
♪まずはいつものように公式動画からご覧ください。
公式動画クレジット: さだまさし「セロ弾きのゴーシュ」 アルバム『風見鶏』(1977年)収録 © 1977 Warner-Pioneer Corporation / Free Flight / Crown Records 2行解説: 1977年発表のスタジオ録音によるオリジナル音源。 繊細な弦楽と構築されたアレンジが際立つ、完成度の高いバージョンです。
1977年 夏の夜長に寄り添う詩情──さだまさし「セロ弾きのゴーシュ」の世界
さだまさしの「セロ弾きのゴーシュ」は、1977年7月25日に発売されたアルバム『風見鶏』に収録された楽曲です。宮沢賢治の同名童話に触発されつつ、亡き恋人を想う女性の感情をさだ独自の詩的世界で描いています。この曲は、フォークソングが人々の心を映す鏡だった時代に生まれ、クラシック的要素を取り入れた構成が特徴です。本記事では、1977年の社会背景と音楽動向、「セロ弾きのゴーシュ」の音楽的構造と詩世界について、精緻にひも解いていきます。

1977年の社会と文化──安定の中に広がる内面性
1977年、日本は高度経済成長の終盤に差し掛かり、社会は相対的な安定期に入っていました。株価と地価は堅調に推移し、企業の国際化が進行。7月には第11回参議院選挙が実施され、政党間の論戦が活発化しました。同年、テレビドラマ『岸辺のアルバム』(TBS)や『新・必殺仕置人』(朝日放送)が放映され、家族の葛藤や人間の業を描く作品が注目を集めました。音楽シーンでも、表面的な華やかさの裏にある個人的な思いや郷愁が響く作品が好まれ、内省的な傾向が顕著となっていきました。
音楽の交差点──フォークとポップのせめぎあい
1977年の音楽界は、フォークの成熟とポップ・ディスコの勢力拡大が同時に進行した年でした。フリートウッド・マックのアルバム『Rumours』が全世界で大ヒットし、英国ではセックス・ピストルズがパンクロックで社会を揺るがせます。日本では、吉田拓郎「人生を語らず」、井上陽水「青空、ひとりきり」など、個人の内面を鋭く描くフォークが根強い支持を集めていました。その一方で、ピンク・レディー「ペッパー警部」やキャンディーズ「やさしい悪魔」など、リズムとビジュアルを重視したアイドルポップが勃興。「セロ弾きのゴーシュ」は、これらの波とは距離を置き、静けさの中に情感を宿す異色の楽曲として位置づけられます。
音の詩学──「セロ弾きのゴーシュ」の構造と編曲
この楽曲は、導入部からさだのギターと柔らかなストリングスが調和し、まるで室内楽のような静謐さを帯びています。特筆すべきは、サン=サーンスの「白鳥」からの引用が編曲に取り入れられている点です。これは単なる装飾ではなく、楽曲の哀感を補強する効果的な引用といえます。編曲は渡辺俊幸が担当し、クラシカルで流麗な音像に仕上がっています。1977年の録音でありながら、その繊細な音の配置と残響の設計は現代的な洗練を感じさせます。
語られざる哀惜──歌詞世界の奥行き
「セロ弾きのゴーシュ」の歌詞は、亡くなった恋人を回想する女性の視点で綴られています。「オン・ザ・ロックが似合うと 飲めもしないで用意だけさせて」などの描写から、相手の不器用さと、それを愛しく受け止める語り手のまなざしが浮かび上がります。「まるで子供のように 汗までかいて」という言葉に宿る生々しい記憶は、恋人の姿をありありと蘇らせます。宮沢賢治の童話的要素を背景にしながらも、テーマは極めて現代的で、死者との対話と癒えない喪失が中心です。
日本に響いた静かな共鳴──1977年のリスナー反応
「セロ弾きのゴーシュ」はシングルカットされなかったにもかかわらず、アルバムを通して静かな反響を得ました。夏の夜、FMラジオ番組などで流されるたびに、「亡くなった母を思い出した」「祖父のチェロを聴いていた日々を思い出した」といった感想が投書欄に寄せられました。1977年当時の社会は、高度成長の達成とともに、個々の記憶や情感に焦点を当てるモードに移行していた時期でもあります。この曲の抑制された旋律と、内なる声のような歌詞は、その空気にぴたりと寄り添っていました。
詩の中のゴーシュ──「童話」と「現実」の交錯
宮沢賢治が描いた「セロ弾きのゴーシュ」は、頑固で不器用なチェリストが動物たちとの交流を通して成長する物語でした。しかし、さだまさしの「セロ弾きのゴーシュ」は、あえてその成長譚から離れ、人生の中で取り残された“誰かを想い続ける者”の視点に立っています。亡き人が遺した音楽、練習風景、酒の趣味すらも、日常の記憶として再構成され、まるで幻聴のように浮かび上がります。つまりこの曲は、童話を反転させた“残された者”の物語とも読めるのです。

アルバム『風見鶏』の中での位置づけ
『風見鶏』は、さだまさしがグレープ解散後に発表した3枚目のソロアルバムで、全体にわたって人間模様と時間の流れを描いた作品です。その中にあって「セロ弾きのゴーシュ」は、死者を想う静謐な時間を象徴するような一曲として配されており、アルバムの中でも特に内省的で詩情豊かな楽曲といえます。構成上も後半に配置されており、リスナーが旅の終わりに近づくような感覚でこの曲にたどり着く流れが意識されています。

チェロという楽器が宿す象徴性
チェロは、音域の広さや深みから「人間の声に最も近い楽器」と称されることがあります。その哀切な音色は、古今東西の映画や詩の中でも“記憶”や“喪失”の象徴として扱われてきました。「セロ弾きのゴーシュ」で語られる“亡霊のような恋人”が弾いていた楽器がチェロであることは、偶然ではなく、そうした文化的連想を踏まえた選択と言えるでしょう。無言の対話、言葉にならない愛情、未完の旋律。チェロはそれらすべてを代弁してくれる楽器なのです。

現代に生きるこの曲──SNS時代の再評価
近年ではX(旧Twitter)やYouTubeのコメント欄を中心に、「セロ弾きのゴーシュ」が持つ情感に言及する若いリスナーの声も増えています。「祖父母が弾いていたチェロを思い出して泣いた」「今の音楽にはない“間”がここにはある」といった投稿は、この曲が時代を超えて共感を呼んでいる証です。Spotifyの“秋の夜長プレイリスト”などにも選曲され、20代や30代にもじわじわと広がっています。
秋の夕暮れに寄り添う旋律
「セロ弾きのゴーシュ」は、時代や世代を超えて心に語りかけてくる作品です。さだまさしが紡いだ言葉と旋律には、亡き人を偲ぶ優しさと、今を生きる私たちへの静かな励ましが宿っています。夕暮れ、少し肌寒くなった窓辺でこの曲を聴けば、1977年の匂いとともに、あの日の想いがそっと胸に蘇るかもしれません。

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