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第6位は『春よ、来い』です
春という季節は、どうしてこうも残酷で、そして美しいのでしょうか。
僕の勝手なBest15の第6位。ここで選ばせていただいたのは、もはやユーミンという枠を超え、日本の歌謡史における「春の聖歌」とも呼べる『春よ、来い』です。
学生時代の春の訪れはいつも少しの不安と、根拠のない期待が入り混じった独特の匂いがしていました。あの頃の自分と、今の自分。その間を流れた膨大な時間を、たった一瞬で接続してしまう魔法のような引力。
今回は、このあまりにも有名で、けれど聴くたびに新しい涙を誘う名曲について、少し静かな気持ちで語らせてください。
まずは公式音源でお聞きください
日本語クレジット
曲名:春よ、来い
アーティスト:松任谷由実
作詞・作曲:松任谷由実
発売日:1994年10月24日(26thシングル)
収録アルバム:『THE DANCING SUN』(1994年11月25日発売)
2行解説
1994年発表の代表曲で、NHK連続テレビ小説主題歌として広く知られる名バラード。
四季の移ろいを通して希望と再生を描き、日本のポップス史に残るスタンダードナンバーとなっている。
「淡き光」と「沈丁花」が連れてくる記憶
この曲を語る上で避けて通れないのが、冒頭の歌詞にも登場する「沈丁花(ジンチョウゲ)」の存在です。

ご存知の通り、沈丁花は春の訪れを告げる強い香りを放ちます。歌詞の中では、小雨に煙る淡い光の中で、その香りがふいに漂ってくる情景が描かれています。 この「香り」という要素が、この曲の最大のトリガーではないかと僕は思うのです。
視覚的な記憶は、写真のように色褪せたり、都合よく改竄されたりすることがあります。しかし、嗅覚に結びついた記憶というのは恐ろしいほど鮮明で、時として暴力的ですらある。ふとした瞬間に香る花の匂いが、何十年も前の感情を、つい昨日のことのように引きずり出す。 歌詞にあるように、その香りは「蕾(つぼみ)」から溢れ出し、過去の愛しい人の面影を連れてくるのです。
秋の訪れは、金木犀(キンモクセイ)で感じ、春の訪れは沈丁花(ジンチョウゲ)で感じる。これが僕の最も大好きな季節の香りです。
「それ」は空を越えてやってくる
サビで繰り返されるフレーズは、単なる季節の春を待っているだけではないように響きます。 「それ」という言葉で表現される何か。それは、物理的な距離である「空」を越えて、あるいは「明日」という時間の概念さえも越えて、必ず迎えに来るものとして描かれています。
僕たちが若い頃、春は「新しい出会い」の季節でした。 しかし、年齢を重ね、人生の秋に差し掛かった今聴くと、この曲が待っている「春」は、「懐かしい再会」であるように感じられてなりません。

失ってしまったもの。もう二度と会えない人。 そうした取り戻せない美しい時間が、春という季節の姿を借りて、一時だけ帰ってくる。この曲が持つ、ある種の宗教的とも言える浄化作用は、そこにあるのではないでしょうか。
松任谷正隆氏の編曲が描く「時間の流れ」
サウンド面に耳を傾けてみましょう。 この曲を決定づけているのは、イントロのピアノのリフレインと、その背後で鳴り響くシンセサイザーの音色です。
あえて音数を絞り、「間(ま)」を活かしたピアノの旋律は、まるで軒先から滴り落ちる雨垂れのようでもあり、ゆっくりと、しかし確実に時を刻む時計のようでもあります。 そこに重なる、重厚でありながらどこか儚いシンセサイザーの響き。これは「和」のテイストを意識しながらも、決して古臭い演歌や民謡にはならず、洗練された「日本のポップス」として成立しています。

特に印象的なのは、楽曲全体を包み込む「残響音(リバーブ)」の深さです。 まるで夢の中、あるいは霧の中にいるかのような音響処理が施されており、これが歌詞の世界観である「夢」や「幻」と完全にリンクしています。聴き手は、イントロが流れた瞬間から、現実世界から数センチ浮き上がったような、不思議な浮遊感の中に誘われるのです。
「君」とは一体誰なのか
歌詞の中で繰り返し語られる「君」。
瞼(まぶた)を閉じればそこにいて、懐かしい声で語りかけてくる「君」。
これは誰のことなのでしょうか。 かつての恋人かもしれません。亡くなった肉親かもしれません。あるいは、若かりし頃の、希望に満ち溢れていた自分自身かもしれません。
歌詞を読み解くと、主人公の心は「君」に預けられたままであり、どれだけ月日が流れても、その返事を待ち続けていることがわかります。 この「終わらない待ちぼうけ」こそが、この曲の切なさの正体です。

今の時代、LINEひとつで即座に返事が来るのが当たり前です。しかし、この曲の中にある時間は、もっとゆったりとしていて、そして残酷なほど一方通行です。 けれど、その「待つ」という行為そのものが、主人公を支えているようにも見えます。
夢と現(うつつ)の狭間で
ここまでは、この曲が持つ「匂い」の喚起力について触れました。後半で注目したいのは、歌詞に描かれる「夢」の扱い方です。
歌詞の中で、主人公は「まだ見ぬ春」に思いを馳せ、迷い立ち止まるとき、夢をくれた「君」の眼差しが肩を抱くのを感じます。 ここでハッとさせられるのは、それが物理的な接触ではなく、「眼差しが抱く」という表現であることです。直接触れることは叶わないけれど、見守られているという感覚だけが、確かな温もりとして残っている。

「夢よ 浅き夢よ」と歌われる一節があります。 古文的な響きを持つこの言葉は、夢が儚く消えやすいものであることを示唆しています。しかし、その直後に続く「私はここにいます」というあまりにも力強く、肯定的な宣言。
夢から覚めてしまえば、そこにあるのは独りきりの現実です。けれど、主人公は嘆くのではなく、「君」を想いながら、一人で歩いていることを静かに、しかし高らかに告げるのです。 この「孤独の肯定」こそが、多くの大人のリスナーの胸を締め付け、同時に救済するポイントではないでしょうか。
「流るる雨」と「流るる花」の美学
歌詞の後半に登場する、「流るる雨のごとく 流るる花のごとく」という比喩。 これは単なる風景描写を超え、「無常」の美学を感じさせます。

雨は天から地へ落ち、花はいずれ散って土に還る。
すべてのものは留まることなく流れ去っていく。
その抗えない摂理の中に、自分の身も置いているという達観。
悲しいことや辛いことがあっても、それもまた雨や花のように流れていくものだという視点は、日本人が古来より持っている自然観そのものです。
ユーミンの歌詞が、単なるラブソングの枠を超えて「文学」や「詩」として評価される所以は、こうした日本的な情緒(あわれ)を、現代的なポップスの中に違和感なく溶け込ませている点にあります。
鎮魂歌(レクイエム)としての響き
この曲が発表されたのは1994年。その翌年には阪神・淡路大震災が起こりました。 当時、被災地でこの曲が多く流され、人々の心を慰めたという話はあまりにも有名です。また、後の東日本大震災の際にも、チャリティー企画などで歌い継がれました。
なぜ『春よ、来い』は、これほどまでに悲しみに寄り添うことができるのか。 それは、この曲が「無理に頑張れと言わない」からだと思います。
「春よ、来い」と願うことは、裏を返せば「今はまだ冬である」と認めることです。 悲しみの中にいる人、喪失感を抱えている人に対して、「早く元気になれ」と背中を叩くのではなく、「いつか春が来るのを、一緒に待ちましょう」と隣に座ってくれるような優しさ。 その「待つ」という姿勢そのものが、傷ついた心にとっては一種の鎮魂歌(レクイエム)として機能するのです。

「明日を越えて」「いつかきっと届く」。 その言葉は、亡くなった人へのメッセージのようにも、未来の自分への約束のようにも聞こえます。
永遠に降り積もるアウトロ
楽曲の最後、サビのフレーズが何度も何度も繰り返され、フェードアウトしていく構成について触れておかなければなりません。
松任谷正隆氏の編曲は見事で、最後に向けて高揚感を煽り立てるのではなく、淡々と、しかし荘厳に、コーラスが幾重にも重なっていきます。 それはまるで、しんしんと降り積もる雪が、やがて花びらに変わり、世界を埋め尽くしていくような音像です。
終わりのないリフレインは、私たちの人生がこの曲が終わった後も続いていくことを示唆しています。 音楽は消えていくけれど、春を待つ気持ちは続いていく。 「春よ、遠き春よ」と呼びかける声は、遠ざかるほどに、私たちの心の奥底に深く染み渡っていくのです。

編集後記
第6位『春よ、来い』。 この曲を聴くとき、僕は思うのです。
若かった頃の未熟な自分、もう会えなくなってしまった友人たちの顔、そして、これからやってくる老いという季節。
ユーミンは魔法使いのように、たった数分の音楽で、時空を歪めて私たちを「あの頃」へ連れて行き、そしてまた「今」へと優しく連れ戻してくれます。 帰り際、ほんの少しだけ心が軽くなっていることに気づきながら。


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