僕の勝手なBest15:【さだまさし特別編】-2/2『縁切寺』をご紹介!

さだまさし」の歴史はこちら語り続けて50年――さだまさしという生き方

僕の勝手なBest15ーさだまさし特別編】-2/2『縁切寺』をご紹介!

僕の勝手なBest15ー【さだまさし】編は、今日の『特別編-2/2:縁切寺』をもって本当に終了致します。 昨日は妻との会話から始まった曲「夕凪」を紹介しました

「僕の勝手なBest15:さだまさし特別編」の第2弾として取り上げるのは、「縁切寺」です。1975年にグレープのアルバム『コミュニケーション』に収録されたこの楽曲は、別れと新たな出発を静かに描いた名作です。さだまさしの繊細な感情表現が際立ち、聴く人の心に静かに沁み渡ります。2025年5月23日、午後8時34分。この夜にふさわしいこの曲の魅力を、さまざまな角度から見つめ直していきます。

今日は学生時代の思い出から紹介文を綴ります。
1978(昭和53)年の秋、当時付き合っていた彼女と、レンタカーを借りて鎌倉にドライブに行った時のことです。

その年の夏、僕は帰郷時に教習所で車の免許を取得していましたが、まだ一人で公道を運転はしたことがありませんでした。初秋に東京の自宅アパートにやっと届いた「運転免許証」を手に喜んだことを覚えています。それで、どこかドライブにでも・・・・となったわけですね。 

免許を取ったばかりで、いきなり首都高を経て鎌倉への旅です。
その日は一日中生きた心地がしませんでした。運転免許試験から2か月ほど経過していましたし、田舎の一本道を走っても不安なくらいの運転レベル状態です。


世田谷のアパートを出て、10分も経たないうちに車を走行させるのが怖くて怖くて・・・本気で戻りたくなりましたが、せっかくの約束ですし、いいところを彼女に見せないといけないし・・・で、なんとか、本当に”なんとか”鎌倉へたどり着きました。
車を降りた瞬間は、安堵感!ではなく、今度は”帰るのが怖い”と、もうそればっかり考えていまして楽しむどころではありません ( ;∀;)

そんな残念な心境でしたが、まあそこは何とか踏ん張って、2人で少し鎌倉を散策しました。
そして・・・たどり着いたのは「東慶寺(とうけいじ)」。通りがかった人にカメラを預け、記念写真を撮ってもらいました。

もう、落ちはお判りでしょう。そう、東慶寺(とうけいじ)がいわゆる「縁切寺」だったんですね。どうりで、周りでは写真を撮っている人はいなくて、僕たち2人が笑顔で写真を撮っているもので、むしろ怪訝(けげん)そうな表情の人がいたような記憶があります。

彼女はとても明るくて、可愛い人でしたね。大学時代に付き合ったのは後にも先にもその人ひとり。いい思い出をたくさん、たくさんくれた人でした。
縁切寺に行ったせいではないでしょうが、残念ながらその2年後に別かれました。そうこなくちゃ!って感じですね!

ここまでは、妻と出会う前の話なので、許してもらいましょう(;´∀`)
社会人になってからは、やはり付き合ったのは今の妻ひとり。その関係が、現在も続いています。

はい、ここで豆知識です。【鎌倉の通称「縁切寺」の正式名:東慶寺(とうけいじ)】とは

この寺はかつて「駆け込み寺」としても知られ、江戸時代には女性が離縁を求めて駆け込むと、一定期間(通常は2年)住職の庇護のもとに過ごすことで離婚が成立したとされています。特に夫から一方的に離縁されることの多かった時代において、女性の救済寺院として大きな役割を果たしました。現在は臨済宗円覚寺派の寺院で、四季折々の花でも知られています。

まずは、公式動画からご覧ください。―「縁切寺」

【クレジット】
曲名:縁切寺(えんきりでら)
歌唱・作詞・作曲:さだまさし
収録アルバム:『帰郷』(2008年)

当初のリリース日:1976年11月25日
℗ 2005 U-CAN, Inc.
【2行解説】
東慶寺をモチーフに、別れと再生の情感を綴ったバラード。しっとりと語るような旋律が、聴く者の心に静かに染み渡ります。

イントロ:別れと再生の物語

「縁切寺」の誕生と背景

「縁切寺」は1975年11月25日にリリースされたグレープの3枚目のオリジナル・アルバム『コミュニケーション』に収録されている作品です。作詞・作曲はさだまさし自身、編曲は木田高介が担当しました。グレープは1972年に結成され、フォークデュオとして多くのファンを魅了しましたが、『コミュニケーション』が事実上最後のアルバムとなりました。「縁切寺」はその締めくくりとして、人生の節目を静かに表現した楽曲です。

有名なカバー:バンバンのバージョン

「縁切寺」はグレープのオリジナルで知られていますが、同時代に活躍していたフォークグループ「バンバン」によるカバーバージョンも存在します。バンバンは「『いちご白書』をもう一度」で有名になりましたが、そのハーモニーとアコースティックな音作りが「縁切寺」の世界観と見事に調和し、フォークファンの間で高く評価されています。カバーが注目されたことも、この楽曲の普遍性と表現力の深さを裏付ける要素といえるでしょう。

1975年の時代背景と音楽の風景

日本社会:安定と転機のはざまで

1975年の日本は、高度経済成長期を経て落ち着きを見せつつありましたが、一方でオイルショックの影響や不況の兆しもありました。人々の生活には変化の兆しが見え始め、精神的な豊かさを求める空気が漂っていました。そのような時代に、グレープのように心の奥底に語りかける音楽が多くの人の共感を呼んでいたのです。

音楽シーン:フォークとニューミュージックの興隆

フォークブームが成熟を迎え、吉田拓郎、井上陽水、南こうせつなどのシンガーソングライターが人気を博していた時代です。そんな中、グレープは情景描写と詩情を融合させた独自の世界観を確立していました。「縁切寺」は、その静けさと余韻の美しさで、多くのフォークファンに深い印象を与えました。

またこの時期は、若者文化が社会的な共感の輪を広げつつあり、大学生や20代を中心に「心の琴線に触れる」音楽が広く浸透していきました。さだまさしの歌詞には、教科書には載らない個人的な痛みや迷いが繊細に描かれており、そうした点も当時の聴衆と強く響き合った理由の一つです。

モチーフと歌詞の世界

鎌倉の「縁切寺」とは?

「縁切寺」のモチーフとなったのは、鎌倉の東慶寺です。江戸時代には、女性が離縁を望んで駆け込むことができた「縁切りの寺」として知られ、現代でも歴史的・象徴的意味を持つ場所です。さだまさしはこの寺の存在に触発され、過去の恋や人間関係との別れをテーマにこの曲を生み出しました。

歌詞の中の物語とリアリズム

歌詞には、鎌倉の町を二人で歩いた過去の記憶と、それを振り返る現在の視点が織り交ぜられています。「紫陽花まではまだ間があるから」「人の縁とは不思議なもので」などのフレーズが、季節感と人間の心理を繊細に描き、聴き手の想像力をかき立てます。

さらに「お願いここだけは 止してあなたとの 糸がもし切れたなら 生きてゆけない」と続く歌詞は、過去への執着と未練を赤裸々に描いており、恋愛の美しさと残酷さが交錯するさだまさしならではの詩的構造です。

歌詞世界と情感:別れを越えて

歌詞の構造と展開

歌詞は3つのパートに分かれ、過去の記憶、縁切寺の場面、そして時間を経た現在という三層構造になっています。過去の思い出が鎌倉の町並みに重ねられ、突然の別れの記憶とともに、再びその地を訪れる主人公の心の揺れが丁寧に描かれています。

テーマの普遍性

「縁切寺」は、恋愛だけでなく、人生のあらゆる「別れ」を象徴的に描いています。人との縁が切れる瞬間、それをどう受け入れ、前に進むか。その問いを、静かに、しかし深く投げかける楽曲です。

また、縁を断つということは、同時に新しい自分への出発でもあります。その意味で「縁切寺」は、破局の悲しみではなく、静かな再生への祈りを込めた楽曲でもあるのです。

受け継がれる影響と再評価

ライブとファンの支持

さだまさしのライブでは、「縁切寺」はファンからのリクエストも多く、静かに演奏されることで空気が一変します。目を閉じて聴き入る観客、そっと涙を拭う姿——それがこの曲の持つ静かな力を物語っています。

カバーと派生作品への影響

近年ではYouTubeなどで若い世代によるカバー動画も増えつつあり、その静けさと美しさが再評価されています。1970年代のフォークの名曲として、今なお色褪せない魅力を放ち続けています。

また現代では、「別れ」を扱う楽曲がラブソングの中核にあることが多く、宇多田ヒカルやaikoなどの表現にも「静かな痛みを歌う」という精神が受け継がれています。こうした繊細な感情表現の系譜を語る上でも、「縁切寺」はその源流のひとつといえるでしょう。

総括:切なる別れの記録

「縁切寺」は、別れの痛みと再生の静けさを描いた一篇の短編詩のような楽曲です。1975年という時代の空気をまといながら、聴く人の心の奥に寄り添い、感情の深層をそっと撫でてくれる作品です。さだまさし(当時はグレープ)ならではの語りと音楽の融合が、時代を超えてこの一曲に結晶しています。


「縁切寺」の歌詞は➡こちらのページからどうぞ

コメント

タイトルとURLをコピーしました