今日は、 山本潤子さんの誕生日です。
今日(2024.12.30)は山本潤子さん(1949年生まれ)の75才の誕生日です。おめでとうございます。
出身は奈良県ですが、生後実家の大阪市に転居しています。
大阪市の阿倍野の歩道橋上で、当時すでにロック・キャンディーズで活動していた谷村新司に声をかけられ、「ヒルビリー・シンガーズ」のボーカルとなったが3ヶ月しか続かなかったという。
1969年、後藤悦治郎、平山泰代、山本俊彦、大川茂とともにフォークソンググループ「赤い鳥」を結成。同年、第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」全国大会にて「竹田の子守唄」を歌いグランプリを獲得。第2位のオフコースなどを抑えての優勝。
1970年6月、日本コロムビアより『人生』にてメジャー・デビュー。
1971年、アルファ・アンド・アソシエイツに移籍。シングル「竹田の子守唄/翼をください」が大ヒット。引用:ウキペディアより
今日の紹介曲:『竹田の子守唄』-山本潤子(赤い鳥バージョン)
超約
寒さや雪の中で子守りをする幼い子が、つらさや寂しさに泣きながらも懸命に働いています。
着る物もなく飢えに耐え、泣く子をあやしながら自分もやせ細っていきます。
遠くに見える親の家を思い、早く帰りたいと願っている様子を歌にしています。
まずは公式動画からご覧ください。
🎵 クレジット(公式情報)
曲名:竹田の子守唄
アーティスト:赤い鳥(The Red Birds)
提供:Provided to YouTube by Sony Music Labels Inc.
チャンネル:赤い鳥 - トピック(登録者 約1,340人)
🌸 2行解説
京都・竹田地方に伝わる子守唄を、1970年代にフォークグループ「赤い鳥」が美しいハーモニーでアレンジした作品。素朴で哀愁を帯びたメロディと透き通るコーラスが、郷愁と静けさを感じさせる名唱です。
🎵 クレジット(公式情報)
曲名:竹田の子守唄
アーティスト:赤い鳥(The Red Birds)
原曲:京都の被差別部落に伝えられた伝承曲
チャンネル:高沢創大(登録者 約8,350人)
🌸 2行解説
京都・竹田に伝わる子守唄を基に、フォークグループ赤い鳥が1969年にアレンジして発表した作品。
哀調を帯びた旋律と澄んだハーモニーが、当時の社会背景と郷愁を静かに映し出しています。
この動画に出てくる画像は、服装や生活様式から見て、明治時代から昭和初期の農村部の風景だと考えられます。農作業や生活の場面が描かれていることから、20世紀初頭、特に大正時代から昭和初期(1900年代〜1930年代)の可能性が高いです。
また、子どもたちが背負子で幼児を背負い、女性が杵を使った作業をしている姿が描かれており、当時の農村における家族や労働の風景をよく表しています。このような情景は、近代化が進む以前の日本の農村部の典型的な生活様式を反映しています。
僕がこの曲を初めて聴いたのは・・・♫
My Age | 小学校 | 中学校 | 高校 | 大学 | 20代 | 30代 | 40代 | 50代 | 60才~ |
曲のリリース年 | 1971 | ||||||||
僕が聴いた時期 | ● |
この歌は京都府伏見区竹田地区の民謡を基に作られていますが、「赤い鳥」がアレンジしてリリースしたのが1971年。僕が13歳の時です。はっきりとした記憶はないですが、我々年代の人たちは、人生のどこかで必ず耳にしている曲だと思います。
しかしながら、その歌詞の内容は漠然とはわかるものの、じっくりと立ち止まって時代背景など考えることは無かったのではないでしょうか?
今回この記事を書くにあたり、僕の父母や、祖父母が生きた時代を少しだけ垣間見た気がします。いつも聞く音楽とは一味違う、心に深く染み入るようないい歌です。
赤い鳥が歌う「竹田の子守唄」の深い魅力と社会的意義

「竹田の子守唄」は、1970年代にフォークグループ「赤い鳥」によって広く知られるようになった楽曲です。この歌は京都府伏見区竹田地区の民謡を基にしており、単なる子守唄にとどまらず、深い歴史的背景と社会的メッセージを秘めています。本記事では、この名曲の魅力を掘り下げながら、その背景や意義を紐解いていきます。
歴史的背景と歌詞の奥深さ
「竹田の子守唄」は明治時代から歌われていたとされ、特に京都市伏見区竹田地区に由来すると言われています。この地域はかつて被差別部落として扱われ、貧困に苦しむ人々が多く住んでいました。歌詞にはその時代の厳しい生活が反映されており、子守りをする少女の孤独や悲しみが切実に描かれています。
歌詞に登場する「在所」という言葉は、この地域特有の表現であり、その背景を知ると歌詞が持つ重みがより深く理解できます。この言葉が放送禁止の一因になったという事実は、当時の社会が抱える偏見や差別の象徴でもあります。
特に、「盆過ぎには雪もちらちら」というフレーズは、季節の移り変わりとともに少女が感じる孤独感や厳しい生活環境を暗示しています。赤ん坊をあやす優しさの裏で、自分自身の未来への不安や悲しみを抱える彼女の姿は、時代を超えて多くの人々の心に響くのです。

赤い鳥のアレンジがもたらした新たな魅力
赤い鳥がこの曲を取り上げたのは1969年。彼らは原曲の持つ哀愁を活かしつつ、現代的なフォークソングとして再構築しました。1971年にリリースされた赤い鳥バージョンは、若者を中心に大きな反響を呼び、瞬く間に広がりました。
赤い鳥のメンバーである後藤悦治郎は、歌に込められたメッセージを強調するため、歌唱に強い感情を込めることを重視しました。その結果、歌の背後にある物語や社会問題への意識を多くの人に喚起させる効果を生み出したのです。彼らのアレンジは、民謡の持つ伝統美を壊すことなく、現代の感性で新たな価値を吹き込みました。

赤い鳥のバージョンによって「竹田の子守唄」は単なる地方民謡の枠を超え、日本全体で共有される文化的財産へと進化しました。このアレンジがきっかけで、この歌が持つ社会的メッセージが多くの人々に届くようになったのです。
現代における「竹田の子守唄」の意義
現代においても「竹田の子守唄」は多くのアーティストによってカバーされ続けています。この継承によって、楽曲に込められたメッセージが新しい世代に受け継がれ、再評価されています。特に音楽教育の場では、歴史や差別の問題を学ぶ教材としても利用されており、子どもたちに対して文化的・社会的な理解を深める役割を果たしています。
例えば、アーティストたちがこの曲をカバーする際には、それぞれの解釈を加えることで新しい命を吹き込んでいます。その一方で、原曲が持つ哀愁や切実なメッセージは大切に受け継がれており、聴く人々に感動を与え続けています。

また、音楽フェスティバルや地域イベントなどでこの曲が披露されることも多く、観客に過去の歴史を思い起こさせ、未来への希望を感じさせる場面も少なくありません。このように、「竹田の子守唄」は単なる音楽作品を超え、文化的資源として幅広い影響力を持っています。
音楽が伝える希望と未来
「竹田の子守唄」は、赤い鳥のアレンジによって広く知られるようになった楽曲であり、そこには深い歴史的背景と社会的メッセージが込められています。歌詞に反映された差別や貧困の問題は、今もなお私たちに問いかけてきます。しかし、この楽曲を通じて私たちは、過去の苦しみを知るだけでなく、それを乗り越える希望を見出すことができるのです。
音楽には人々をつなぎ、未来への力を与える不思議な力があります。「竹田の子守唄」はその象徴とも言える存在です。この歌が持つ魅力を次世代に伝えていくことは、単に音楽を楽しむこと以上の意義を持つと言えるでしょう。

赤い鳥が歌った「竹田の子守唄」は、深い悲しみと希望が交錯する一曲です。この名曲を聴くたびに、私たちはその背景に思いを馳せ、音楽の持つ力を再認識することができます。そして、それを次の世代へと引き継ぐことで、この歌の持つメッセージがさらに広がりを見せることを願っています。
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