【6月9日】は、ジョン・ロードの誕生日-『Burn』(Deep Purple)をご紹介!

【6月9日】は、の誕生日です。

🎹 ジョン・ロード(Jon Lord)は、1941年6月9日にイングランド中部のレスターに生まれました。クラシック音楽とロックを融合させた革新的なスタイルで知られ、特にハモンドオルガンの力強く荘厳な響きは、彼の代名詞ともいえる存在です。

1968年にディープ・パープル(Deep Purple)を結成し、初期から中期にかけてのサウンドの核を担いました。代表曲『Burn』や『Smoke on the Water』などでは、ギターと対等に渡り合うオルガンの存在感が際立ち、クラシカルでドラマティックな楽曲展開に大きく貢献しました。

バンド活動のかたわら、ソロ名義でもクラシック寄りの作品を多く発表し、ジャンルを越えた音楽性の深さを示しました。2002年にはディープ・パープルを正式に脱退し、その後は作曲活動に専念しましたが、2012年に71歳で惜しまれつつ亡くなりました。

まずはYoutube動画の公式動画からどうぞ!!

🎬 公式動画クレジット
『Burn(2002リマスター)』
演奏:ディープ・パープル(Deep Purple)
© 1974, 2002 ワーナー・レコード
提供元:Rhino / Warner Records(YouTube公式配信)

💬 2行解説
1974年発表の名盤『Burn』のリマスター版。新ボーカルのカヴァデールとヒューズが加わり、バンドの新章が始まった疾走感あふれる一曲です。

僕がこの曲を初めて聴いたのは・・・♫

My Age 小学校中学校高校大学20代30代40代50代60才~
曲のリリース年1974
僕が聴いた時期

僕がこの曲を初めて聴いたのは、リリース時の高校1年の頃だと思います。

中学2年生(1972年)の時にリリースされたアルバム「マシン・ヘッド (Machine Head) 」には、「ハイウェイ・スター – “Highway Star”」や「スモーク・オン・ザ・ウォーター – “Smoke on the Water”」といった大ヒット曲があり、僕も既にこの時聴いていました。

でも当時は、僕はまだポップス&ロックの域を出ず、ハードロックはちょっと・・・という感じで聴いていましたね。

大学入学後にハードロックもガンガンに聴くようになってから、再度彼らの楽曲を聴き直した記憶があります。この曲も大好きな一曲です。


ディープ・パープル『Burn』──炎が刻んだ新章の幕開け

新体制ディープ・パープルの挑戦

1973年、イアン・ギラン(Vo)とロジャー・グローヴァー(Ba)の脱退という激震を経て、ディープ・パープルは大きな転機を迎えました。バンドの命運がかかった新メンバーとして迎え入れられたのは、デイヴィッド・カヴァデールグレン・ヒューズ。この大胆なリニューアルによって誕生した最初のアルバムが、1974年の『Burn』です。

本作は、ただのメンバーチェンジではなく、ディープ・パープルの音楽的再定義とも言える作品でした。ハードロックの牙を残しつつも、ファンク、ブルース、クラシックの要素が絶妙に絡み合ったサウンドは、当時のロックファンに新たな衝撃を与えました。

1974年、日本の情勢と大衆文化の潮流

時代の空気と世相

『Burn』が発表された1974年、日本は高度経済成長期の終焉を迎え、社会全体が大きく揺れていました。前年の第一次オイルショックの余波で物価は急騰し、「狂乱物価」と呼ばれる時代の混乱が市民生活を覆っていました。

小野田寛郎元少尉がルバング島から帰還したというニュース(※1)は日本中を驚かせ(僕は生の映像を見ました!!)、また、三菱重工爆破事件に代表されるような過激派によるテロも社会不安を煽っていました。混乱と不安の中でも、人々は娯楽や文化に希望や癒しを求めていました。

テレビ・映画・音楽の広がり

アニメ『宇宙戦艦ヤマト』の放送開始、映画『砂の器』のヒット、そして森進一『襟裳岬』小坂明子『あなた』などの歌謡曲がチャートを賑わせていたこの年、日本の大衆文化は活気と混乱が共存していた時代でもありました。

『Burn』が放つ音楽的魅力の火花

イントロから火花を散らすギターリフ

アルバム『Burn』の冒頭を飾るタイトル曲「Burn」は、6分超の構成ながら冗長さを感じさせない展開力を誇ります。リッチー・ブラックモアによる冒頭のギターリフは、クラシック音楽のような緻密さとハードロックの野性味を併せ持ち、イアン・ペイスの雷鳴のようなドラムジョン・ロードの荘厳なオルガンとともに、わずか30秒でリスナーを楽曲世界に引き込みます。

ツインヴォーカルが描く立体的な世界観

最大の特徴は、デイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズによるツインヴォーカル。低音のうねりとハイトーンのコーラスが交錯し、1人のヴォーカルでは成し得ない深みと広がりを生み出しています。サビでは炎がゆらめくような迫力と躍動感が響き渡り、新体制でしか築けない音世界が完成されています。

ファンクとクラシックが同居するサウンド設計

ヒューズのファンキーなベースがグルーヴを支え、ブラックモアのギターとジョン・ロードのクラシカルなキーボードが見事に融合。ハードロック × ファンク × クラシックという実験的なアレンジが、『Burn』を単なるハードロックの1曲以上の存在に押し上げています。

歌詞に込められたメッセージと象徴性

恋愛の喩としての“炎”

歌詞には、情熱的な恋愛の高まりと崩壊が炎のメタファーで象徴的に描かれています。“She burned me, and now I’m ash”という一節が物語るように、感情の昇華と喪失を表す表現が印象的です。

新生パープルの決意表明としての“Burn”

同時に、バンド自身の再生と挑戦を象徴しているとも読めます。ギラン、グローヴァーという中核メンバーが去り、一度“灰になった”バンドが新体制で再び燃え上がる──『Burn』は自己再生のメッセージソングでもあるのです。

アルバム『Burn』の評価と全体像

アルバム全体の魅力と多様性

『Burn』はタイトル曲だけでなく、『Might Just Take Your Life』『Lay Down, Stay Down』『You Fool No One』など、すべてが高い完成度を誇る楽曲で構成されています。特にファンクやブルースの要素を取り込んだ音楽性は、当時としては非常に革新的で、今なおファンに愛される理由となっています。

『Lay Down, Stay Down』と『You Fool No One』の魅力

『Lay Down, Stay Down』は、カヴァデールとヒューズのヴォーカル応酬がスリリングな1曲。ブラックモアの鋭いギターとペイスのドラムがスピード感を加え、まさにライブバトルのような迫力です。

一方、『You Fool No One』は、複雑なリズムと即興性が際立つ変化球的楽曲で、ライブでは長尺のジャムセッションとして展開されることも多く、ディープ・パープルの柔軟性を象徴しています。

興味深い制作裏話とその後の影響

『Burn』の仮タイトル「The Road」と誕生の瞬間

『Burn』の初期段階では、「The Road」という仮タイトルがつけられていた記録があります。これは、ブラックモアがツアー中の車内でギターを爪弾きながら生み出したリフに由来し、後に炎をテーマにしたリリックと結びついて『Burn』となりました。

後続バンドへの影響と再評価

『Burn』は、ツインボーカル編成の先駆けとしてアイアン・メイデンやジューダス・プリーストなどにも影響を与え、ブラックモアのギターやペイスのドラムは多くの若手バンドの手本となりました。2000年代以降の再評価では、リマスター盤やライブ音源のリリースが相次ぎ、新たな世代にも広く支持されています。

『Burn』が現代に残した意義

『Burn』は単なる名曲ではなく、焼け落ちた場所から再び立ち上がるという“再出発”の象徴として、今も多くの人に力を与え続けています。混迷する現代にこそ、その熱量とメッセージは新たな意味を持ち始めているのかもしれません。

『Burn』Deep Purple:意訳

夜空が赤く染まり
誰もその意味をわからなかった

深夜を過ぎても
大地はまだ見えていた

誰かが言った
「女が災厄を呼ぶ」と

その手ひと振りで
すべてが燃え上がった

街が燃え
町が沈んだ

炎は天を突き
彼女の声が響く──
「Burn」

誰も信じなかった
彼女の警告を

「お前たちは学ばない」と彼女は言い
「私が去ればもう戻らない」と告げた

それでも人々は笑った
あの言葉を聞くまでは──
「Burn」

警告はあった
けれど誰も気に留めなかった

地が揺れ
空が震え
その時、誰ひとりとして
逃れることはできなかった

それでも今なお
耳にこだまするのは
「Burn」

僕らには時間がなかった
試すことすらできなかった

最初から
抗う術はなかったのかもしれない

今もその声が
胸の奥で燃えている──
「Burn」

by Ken

※小野田寛郎・元少尉──30年の孤独な戦いと帰還

● 誰か?

小野田寛郎(おのだ・ひろお)元陸軍少尉は、太平洋戦争末期にフィリピン・ルバング島へ派遣された旧日本陸軍の情報将校です。1945年の終戦後も投降せず、実に約30年にわたり密林での潜伏生活を続けたことで、戦後史に大きな足跡を残しました。


● なぜ帰還が遅れたのか?

戦争が終わった事実を知らされても、彼は**「任務解除の命令が直接上官から出るまでは降伏しない」**という軍人としての信念を貫いていました。ビラや新聞で終戦を知る機会はあったものの、「敵の心理戦だ」と考えて信じませんでした。

その間、小野田氏はわずかな仲間とともに密林に隠れ、時に現地の住民と衝突しながら、自らの任務(ゲリラ戦や情報活動)を継続していたのです。


● 帰還のきっかけ

1974年、ルバング島での潜伏を知った若き冒険家・鈴木紀夫氏が現地入りし、ついに本人と接触に成功。そして、小野田氏が求めていた**「直接の上官からの命令」を伝えるため、元上官だった谷口義美少佐(当時民間人)がフィリピンへ同行。正式な任務解除命令**を受け、小野田氏はようやく日本へ帰還しました。

帰国日は 1974年3月12日。このニュースは連日メディアをにぎわせ、日本中を驚かせただけでなく、戦争の記憶と「忠誠・孤独・信念」といった価値観をあらためて国民に突きつけました。


● 社会的な反響

  • 「最後の日本兵」「戦争の生き証人」として英雄視される一方、
  • 長期間にわたって現地住民と衝突していた事実などが報道され、賛否両論の評価が起きました。

しかしこの事件は、日本社会にとって「戦争はまだ遠くなっていない」という現実を改めて痛感させるものでした。


戦争とはどのように理由付けしようとも、多くの人々が傷つくのは絶対に避けられないのです。

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