🎸【僕の勝手なBest10:アルバート・ハモンド編】第7位『The Free Electric Band』をご紹介!

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  1. 僕の勝手なBest10:第7位は『The Free Electric Band』です。
    1. 🎥🎼まずはいつものように、Youtubeの公式動画をご覧ください。
      1. 動画❶ The Free Electric Band – Albert Hammond
  2. ギター一本で駆け抜けた1973年──『The Free Electric Band』が放つ解放のメッセージ
  3. 世界情勢と音楽の変革期:1973年の空気
    1. ベトナム戦争終結の余波と新しい音楽の胎動
    2. 音楽に宿る新たな価値観と表現
  4. 日本における光と影:経済成長と文化の交錯
    1. ビル群の影と社会不安──日本の1973年の光と影
    2. 音楽シーンの躍動とフォークロックの台頭
  5. アルバート・ハモンドの多文化的な軌跡
    1. ジブラルタルの放浪者が辿った音楽の出発点
    2. 「The Diamond Boys」から世界へ
  6. 『The Free Electric Band』が示した音楽的革新
    1. アコースティックの力強さとポップの華やかさ
    2. 耳に残るコーラスとその意味
  7. 歌詞に映し出された若者の選択と時代の声
    1. 自由を選んだ主人公の人生
  8. カリフォルニアポップの系譜とハモンドの位置づけ
    1. フォークとポップの融合が生んだ“陽だまりの音楽”
  9. 日本のリスナーとの共鳴──“自由のアンセム”としての受容
    1. 洋楽ファンに届いたアルバート・ハモンドの声
  10. “ヒットメーカー”から時代を超える存在へ
    1. シンガーソングライターからソングライターへ
  11. 時代を超えて鳴り響く“自由”のメッセージ

僕の勝手なBest10:第7位は『The Free Electric Band』です。

アルバート・ハモンド編第7位は、『The Free Electric Band』です。彼にしてはロック色の強い楽曲です。歯切れがよくノリの良い楽曲です。歌詞が良いです。

🎥🎼まずはいつものように、Youtubeの公式動画をご覧ください。

動画❶ The Free Electric Band – Albert Hammond

📌 クレジット情報(YouTube記載)
提供元:Sony Music Entertainment
著作権:© 1973 Mums Records
作曲者:M. Hazelwood
リリース日(音源):2009年9月3日(※CD再発日)
チャンネル:Albert Hammond Official

動画2Albert Hammond – The Free Electric Band

📌 クレジット情報
チャンネル:Albert Hammond Official
アップロード日:2017年1月19日
音源提供元:Sony Music Entertainment
著作権表記:© 1973 Mums Records
作曲者:M. Hazelwood(マイク・ヘイゼルウッド)

ギター一本で駆け抜けた1973年──『The Free Electric Band』が放つ解放のメッセージ

1973年(僕が中三の時)にリリースされたアルバート・ハモンドの楽曲『The Free Electric Band』は、彼のセカンドアルバムの表題曲として知られ、自由を求める若者の心情を軽快なサウンドで描いた名曲です。本稿では、リリース当時の世界と日本の社会背景、音楽シーンの潮流、そしてアルバート・ハモンド自身の個性とキャリアを丁寧に掘り下げながら、この楽曲が持つ普遍的な魅力を紐解いていきます。さあ、1973年の音楽旅行に出発しましょう!


世界情勢と音楽の変革期:1973年の空気

ベトナム戦争終結の余波と新しい音楽の胎動

1973年は、世界が大きな転換点を迎えた年でした。アメリカでは1月27日にパリ和平協定が締結され、長く続いたベトナム戦争が終結へと向かう重要な節目となりました。この協定により、アメリカ軍の直接介入が終わり、ベトナムからの撤退が本格化します。

しかし、戦争の傷跡は深く、若者の間では体制への不信感や自由への強い憧れが渦巻いていました。カリフォルニア大学バークレー校を中心に、学生運動が活発化し、反戦デモヒッピー文化が社会に浸透。フラワーチャイルドたちが掲げる「愛と平和」のスローガンは、若者の心に深く根付いていました。

音楽に宿る新たな価値観と表現

音楽シーンもまた、変革の波に乗り、新しい表現が次々と生まれていました。ピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』(3月1日リリース)は、狂気や時間、死といった精神的なテーマを掘り下げ、ロックを芸術の域に引き上げた傑作として世界中で称賛されました。

一方、グラムロックの旗手デヴィッド・ボウイは『Aladdin Sane』(4月13日リリース)を発表。ジギー・スターダストの物語をさらに進化させ、派手な衣装と実験的なサウンドでリスナーを魅了しました。

この年にはカリフォルニアの音楽フェスティバルでシンセサイザーが広く使われ始め、音楽の新しい表現が模索されるなど、ロックの枠を超えた“新しいサウンド”が胎動していました。たとえば、エマーソン・レイク・アンド・パーマーのキース・エマーソンは、モーグ・シンセサイザーを駆使した演奏で観客を驚かせ、音楽の可能性を広げるパイオニアとして注目を集めていました。


日本における光と影:経済成長と文化の交錯

ビル群の影と社会不安──日本の1973年の光と影

日本では高度経済成長がピークを迎え、新宿副都心では1971年に開業した京王プラザホテルに続き、1973年も開発が進行。鉄とガラスのビル群が立ち並び、東京は近代都市へと変貌を遂げていました。

しかし、10月に発生した第一次オイルショックがこの繁栄に暗い影を落とします。アラブ産油国が石油価格を引き上げたことでエネルギー危機が起こり、日本でも物資不足への不安が広がりました。トイレットペーパーや洗剤の買い占めが社会現象化し、スーパーマーケットの棚から商品が消える異常事態に。(この状況テレビで見た記憶があります!) 表面的な豊かさの裏で、庶民の生活には不安と混乱が漂っていました。

音楽シーンの躍動とフォークロックの台頭

音楽シーンでは、フォークブームが全盛期を迎え、若者の心を掴むアーティストが続々と登場していました。井上陽水は1973年12月1日にアルバム『氷の世界』をリリース。フォークの枠を超えた実験的なアプローチと、孤独や疎外感をテーマにした歌詞が話題を呼び、後のJ-POPに大きな影響を与える名盤となりました。

吉田拓郎は「人生を語らず」などの楽曲で、フォークにロックの要素を取り入れた“日本語ロック”の先駆者として存在感を高めていました。また、南こうせつ率いるかぐや姫は『神田川』で大ヒットを記録。切ない恋物語を繊細なメロディーで歌い上げ、若者の共感を呼びました。

アルバート・ハモンドの多文化的な軌跡

ジブラルタルの放浪者が辿った音楽の出発点

アルバート・ハモンドは1944年5月18日、英領ジブラルタルに生まれました。第二次世界大戦中はロンドンに疎開していたことからロンドン生まれとされていますが、戦後すぐにジブラルタルへ戻り、英語とスペイン語が飛び交う多文化環境の中で育ちました。この多言語的で国際色豊かな背景が、彼の音楽性に大きな影響を与えたのは間違いありません。

「The Diamond Boys」から世界へ

1960年代初頭、ハモンドはスペイン・マドリードのバンド「The Diamond Boys」で音楽活動を開始。英米ポップを奏で、スペイン語圏で注目されました。1970年にアメリカへ渡り、1972年の『It Never Rains in Southern California』が全米5位のヒット。夢と現実のギャップを描いたこの曲は、彼の代表作となりました。

『The Free Electric Band』が示した音楽的革新

アコースティックの力強さとポップの華やかさ

1973年にリリースされた『The Free Electric Band』は、同名アルバムの表題曲として登場しました。冒頭から鳴り響くアコースティックギターの力強いリズムと、それに絡む軽快なドラムビートが印象的で、爽快感と疾走感を感じさせます。

プロデューサーを務めたマイケル・オマティアンは、自身のキーボードプレイで楽曲に立体感を与えています。また、ギターにはラリー・カールトン、ベースにはジョー・オズボーンといった名プレイヤーが参加し、アレンジに洗練された厚みが加わりました。

耳に残るコーラスとその意味

「Da, ba, da, ba, da, da, dee-dee / With the free electric band」というサビのコーラスは、誰もが一度聴いたら口ずさみたくなる中毒性を持ち、リスナーを楽曲の世界に引き込みます。このフレーズは、音楽が象徴する“自由”そのもののように響き、メッセージ性のあるリフレインとして機能しています。


歌詞に映し出された若者の選択と時代の声

自由を選んだ主人公の人生

歌詞では、医師の父と慈善活動に携わる母を持つ主人公が、親の期待を拒み、自らの意志で音楽の道を選ぶ姿が描かれています。大学進学ではなく、カリフォルニアのバークレーへ旅立ち、バンド活動に没頭する主人公の選択は、まさに“1973年の若者”の象徴とも言える決断でした。

途中で登場する恋人との関係もまた印象的です。彼女は一見、自由な価値観を共有しているように見えましたが、実際には郊外に家を構え安定を求める生活を夢見ていたため、主人公は自分の信念に従い別れを選びます。

カリフォルニアポップの系譜とハモンドの位置づけ

フォークとポップの融合が生んだ“陽だまりの音楽”

1970年代初頭のアメリカ西海岸では、フォークとポップが融合した“カリフォルニアポップ”が流行し、ジェームス・テイラーやキャロル・キングらがその代表格となりました。アルバート・ハモンドの『The Free Electric Band』もその一翼を担い、親しみやすいアコースティックサウンドと普遍的なメッセージで、多くの心をとらえました。

日本のリスナーとの共鳴──“自由のアンセム”としての受容

洋楽ファンに届いたアルバート・ハモンドの声

『The Free Electric Band』は日本のラジオでも盛んにオンエアされ、とくにFM局での放送がきっかけで多くの若者に知られるようになりました。1970年代、日本は洋楽ブームの真っただ中であり、英語の歌詞であっても、そのメロディーとテーマが若者の心を強く打ったのです。


“ヒットメーカー”から時代を超える存在へ

シンガーソングライターからソングライターへ

『The Free Electric Band』のヒットを機に、アルバート・ハモンドはソングライターとしての才能も開花させました。ホリーズに提供した『The Air That I Breathe』をはじめ、ホイットニー・ヒューストン、セリーヌ・ディオン、スターシップなど、多彩なアーティストに楽曲を提供し、1987年には『Nothing’s Gonna Stop Us Now』でアカデミー賞ノミネートも果たしています。

2010年にはダフィーと共作した『Endlessly』を発表し、レジェンドにとどまらず現役としても活動。彼の音楽は時代を超えて心に響き続けています。


時代を超えて鳴り響く“自由”のメッセージ

『The Free Electric Band』が今も心に響くのは、ただメロディーが印象的だからではありません。「自分はどう生きるか」という普遍的なテーマが根底にあるからです。親の期待や社会の常識を捨て、自らの信念に従う勇気が、この曲には込められています。

「ギターとパンと水があればいい」という一節は、物質よりも情熱や表現を大切にする生き方を示しています。アルバート・ハモンドの音楽は、国や時代を越えて、自由と自己表現の大切さを静かに問いかけ続けているのです。

『The Free Electric Band』by(アルバート・ハモンド):意訳

両親は模範的なアメリカ人だった。父は医師、母は慈善活動に励み、法律に従い、国家を支えていた。そんな家庭に生まれた僕も、整った髪で新設の明るい校舎に通い、価値観を教え込まれて育った。けれど、そんな人生設計のすべてを、音楽のために捨てた。

東海岸の名門大学へ進む道を父は用意してくれたが、僕は太陽と海のあるカリフォルニアを選び、家族や教師には理解されなかった。「音楽とザ・フリー・エレクトリック・バンド」のために生きるという選択は、常識では測れないものだった。

ギター一本と最低限の暮らしがあればいい。世間が期待する弁護士や医者の肩書きよりも、自由な表現の方が僕にとっては真実だった。バークレーで出会った女性との恋も、彼女が郊外の平凡な生活を望んでいたと知り、僕は再びすべてを手放した。

繰り返し歌われるのはただ一つ──音楽こそが、僕にとってのすべてだったのだ。

by Ken

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