★「小椋佳」について詳しくは➡こちらのWikipediaでどうぞ!
さあ、『僕の勝手なBest10:【小椋佳】編』の始まりです。
今回の僕の勝手なBest10シリーズは、「小椋佳」編です。
小椋佳を初めて知ったのは、小椋佳が井上陽水に提供した楽曲『白い一日』だと思います。
大大大好きな楽曲で、陽水バージョンもいいし、小椋佳バージョンも甲乙つけがたい。まさにそんな曲でした。
イメージ的には、あまりスポットライトを浴びるタイプではなかったし、そもそも東大を卒業してメガバンク(当時の第一勧業銀行、今のみずほ銀行)の銀行員として勤めならが音楽と関わってきた人なので、制約も多かったと思います。僕も元銀行員ということで親近感はありましたし、尊敬もしています。

僕が10年ほど前に福岡で単身赴任をしていた時に福岡県内でコンサートがあり、今小椋佳を見ておかないともう見ることができないかもしれない、これが最後かもと思いながらコンサートを観に行きました。そこで感じたのはいきらず、力まず、淡々と歌唱する小椋佳の姿。その後の生前葬コンサートなど、まさに引き際を大切にされた方です。
現在81才となり、元気なご様子ですが、今紹介しておかないと後悔すると思い、この時点に紹介となりました。ぜひお楽しみください。
小椋佳:僕の勝手なBest10:第10位は「夢芝居」です。
映像で見る「芝居の舞台裏」~夢芝居!
動画提供:小椋佳 公式チャンネル(YouTube)
楽曲:夢芝居
著作権:© 小椋佳 / 所属レーベル・著作権管理団体に帰属
「夢芝居」は、もともと梅沢富美男さんが1982年にリリースした楽曲で、作詞・作曲は小椋佳さんが手がけました。この動画は「夢芝居」の小椋佳さんによるセルフカバーであり、オリジナルの作詞・作曲者が自身で歌っているバージョンです。
静かなる語り──小椋佳が紡いだ「夢芝居」の真実
内なる舞台が立ち上がる──小椋佳による静謐な世界
夕暮れの片隅、ふと聴こえてくるのは、華美な装飾も演出も排した静かな語り。小椋佳がセルフカバーした「夢芝居」は、そんな内省の時間を与えてくれる楽曲です。梅沢富美男さんによる歌謡演劇的なバージョンとは対照的に、小椋佳の歌唱はまるで日記を綴るように淡々と、しかし深い感情の波を静かに運んできます。
セルフカバーは1991年──30曲の夢とともに
1991年に発表されたアルバム『夢歌詩 30 songs on dream』に、小椋佳自身の「夢芝居」が収録されました。このセルフカバーは1982年に梅沢富美男さんへ提供された同名曲と同一作品ですが、演出も表現もまるで異なります。舞台演出としての拍子木もなく、芝居の開幕を告げるような効果音も存在しません。

ただ、そこにあるのは「言葉」と「旋律」、そして小椋佳の落ち着いた歌声。聴き手がまるで自分自身の感情と向き合っているかのような、静謐な空間が広がります。
「恋のからくり夢芝居」──冒頭が提示する人間模様
小椋佳のバージョンでは、冒頭の歌詞が「恋のからくり夢芝居」となっています。これは、恋愛における駆け引きやすれ違いを、からくり人形のような構造で象徴している詩的な表現です。劇的な展開はありませんが、このたった一行に込められたイメージの豊かさが、楽曲全体のトーンを決定づけています。
人生の裏表、喜怒哀楽の演技、あるいは素顔──そうした要素を大仰に描かず、聴き手の想像に委ねている点にこそ、小椋佳の作風が如実に現れています。(今後紹介していく小椋佳の楽曲全般に共通しています。)
銀行員としての視点──抑制の美学
東京大学法学部卒という経歴を持ち、日本勧業銀行(現在のみずほ銀行)で25年間勤務した小椋佳さん。その職業人生が、音楽における冷静な観察眼と抑制の効いた表現に結びついています。
小椋佳は「感情を過剰に乗せすぎない」ことを美徳とし、心の深層に静かに触れるような楽曲を多く残してきました。「夢芝居」もまさにその一つ。誰もが共感できるような普遍性を持ちつつも、押しつけがましくない語りで綴られているのが特徴です。

音楽構成の妙──静と動の絶妙なバランス
全体としては短調を基調とし、物憂げな旋律が静かに流れます。テンポの変化も控えめで、場面転換のような明確な展開はありません。
しかし、サビでは旋律がやや高まり、感情の揺れを感じさせる瞬間が訪れます。それは決して叫びではなく、心の奥底から小さく湧き上がる「ため息」のような感情。聴く者の心にそっと寄り添い、余韻を残す構成です。
バブル崩壊前夜の1991年──不安定な時代に響く内省の音
セルフカバーが発表された1991年は、バブル経済の終焉が現実味を帯び始めた年でもありました。社会全体が「浮かれた熱狂」から「静かな不安」へとシフトしていた中、小椋佳さんの「夢芝居」は、その変化にぴたりと寄り添うような一曲となったのです。
派手なJ-POPが台頭し、テレビには眩しい光が溢れていた時代に、静かに聴く音楽を求める人々の心に、この楽曲は深く刺さりました。

拍子木も緞帳もない──それでも幕は開いている
梅沢富美男さんの「夢芝居」には、芝居の緞帳が上がるような演出、拍子木の音、劇場的な緊張感が満ちています。それに対して、小椋佳さんのバージョンは、舞台装置を全て取り払った「無音劇場」のようです。
演出がないからこそ、聴き手はそれぞれの“夢芝居”を心の中に思い描くことができるのです。小椋佳の「夢芝居」は、音楽というよりも、内面と向き合うための“静かな空間”そのものなのかもしれません。
なぜ、今も聴かれ続けるのか──心の余白に入り込む歌
30年以上の時を経てもなお、小椋佳の「夢芝居」が聴き継がれている理由は、そこに描かれている感情が一過性のものではないからです。
恋の迷い、孤独、沈黙、そして自己への問いかけ──そうした普遍的なテーマを、抑制された言葉と静かな旋律で包み込んだこの楽曲は、聴き手の年代や状況に応じて、さまざまな意味を持ち得ます。
表面的なドラマではなく、内側の“語られない物語”にこそ真実がある──そんな信念が、楽曲の核に息づいています。

結び──静けさの中に宿る声
小椋佳による「夢芝居」は、人生を舞台に見立てながらも、決して舞台装置に頼らない、むしろ「装置を捨てた舞台」として存在しています。その姿勢こそが、多くの人の心に静かに残り続ける理由でしょう。
大きな拍手よりも、小さな溜め息や、目を伏せたままの共感。それを大切にする音楽は、時代がどう変わろうと、聴く者にとっての「ひとときの舞台」であり続けるのです。
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