僕の勝手なBest30:【ふきのとう】編-第5位『やさしさとして思い出として』をご紹介!

「ふきのとう」の歴史はこちら
歴史【前編】「出会い~デビュー〜初期成功~成長期」まで(1970〜1976)
■歴史【後編】1977年〜解散・現在までの「円熟期・終幕・再会」

ふきのとうBest30もいよいよBest5の紹介です。

第5位は、『やさしさとして思い出として』です。
ランキングを紹介しておきながら、今更おかしな話ですが・・・
この曲は5位という上位ですが、10位でも良かったし、3位でも良いのです。つまり、それだけ僅差の中に彼らの曲が沢山あるということなんですね。

第1位と、2位はちょっと譲れませんが、そのほかの曲はあえて今ランキングをつけるとしたら・・・というだけのことです。どの曲も、ふきのとうの楽曲は僕の青春と時を同じくして生まれ、同じ時代を過ごしたのです。

まずはYoutube動画から紹介しましょう。

下の画像をクリックしてください。Youtube動画『ふきのとう/やさしさとして想い出として』にリンクしています

(※下記動画はYouTube上の非公式アップロードです。著作権上の正式許諾が確認されていないため、視聴・使用はご自身の判断でお願いいたします。万が一削除されている場合もありますのでご了承ください。)

🎥 出典:YouTube「Fukino10 Chan-nel」チャンネルより  
動画タイトル: ふきのとう/やさしさとして想い出として 
作詩・作曲:山木康世/編曲:瀬尾一三
動画公開年:   2014/10/31
※この動画は、YouTube上に投稿された第三者によるコンテンツです。※公式アカウントによる配信ではありません。  ※著作権等の管理・削除判断はYouTubeの運営ポリシーに従って行われており、当ブログは一切の関与をしておりません。  ※本記事では、楽曲やアーティストの理解を深める目的で情報提供の一環として紹介しています。

第5位『やさしさとして思い出として』〜九月の街と、届かぬ君の声〜

はじめに:静かに沁みる、喪失の歌

ふきのとうが1976年に発表したアルバム『風待茶房』。(個人的にも最も愛着のある一枚です)
その1曲目に収録された『やさしさとして思い出として』は、作詞・作曲を山木康世が手がけた作品で、アルバム発売から4年後の1980年にはシングルカットされました。年月を経ても色褪せることなく、ファンの間で今なお高く評価されている代表曲です。

この歌が描いているのは、恋の終わり——ただし、すでに変わってしまった相手を前にしたときの、淡く静かな諦めの感情です。

全編にわたって支配しているのは、“抑制”と“余白”。
語られなかった想いこそが胸に沁みてくる、そんな余韻の深さを湛えた一曲です。


アルバムの幕を開ける“静けさ”の理由

『風待茶房』というタイトルには、何かをじっと待つ気配や、取り残されたような時間の空白が漂っています。そんなアルバムの冒頭にこの曲が据えられているのは、決して偶然ではありません。

本作は、内面の揺らぎを大きな声で語るのではなく、静けさの中に感情を沈めるようなアプローチで描かれています。


ギターと声で描く“言葉にならない感情”

音が始まりを告げる:静かなイントロの役割

この楽曲は、山木康世によるアコースティックギターの繊細なアルペジオから始まります。
その冒頭に続く歌い出しの一節——

「もうあなたと逢えなくなる」

この言葉で、すでに物語は“終わり”の地点から始まっています
出会いや愛の記憶ではなく、「もう逢えない」という確定した現実から物語が進んでいく。
その構成が、この曲を回想ではなく、現在進行形の感情の揺れとして成立させているのです。


細坪の声がたどる、心の揺れ

ボーカルを担う細坪基佳の声は、この楽曲の核心にあります。
どこか少年のような繊細さを残したその声は、過度な感情表現を避けながらも、聴き手の心に小さな波紋を広げていきます。

たとえばAメロの後半で歌われる、

「九月のことに かかりきりみたいで 夜の街は 淋しすぎて その上 冷たすぎて」

というフレーズには、相手の心がもう自分には向いていないことを直接的には語らず、それでも“届かぬ存在”になってしまった喪失感がにじみ出ています。

細坪の抑制された歌唱は、こうした間接的な表現と非常に相性がよく、聴き手の想像力を静かに喚起します。


構成の簡素さが生む説得力

感情の推移が静かに流れる

この楽曲は、Aメロ→Bメロ→サビというオーソドックスな構成をとっていますが、そのシンプルさこそが、主人公の感情の動きを自然に伝える力となっています。

Bメロでは、主人公が涙をこぼしながら、それを自分自身に言い訳しようとする描写が出てきます。

「爪の伸びた小指をかみながら こぼれる涙に言い訳していた」

この描写は、ストレートな嘆きではなく、感情を必死に抑え込もうとする不器用な人間の姿を映し出しています。
悲しみをそのまま表すことができない“弱さ”こそが、聴き手に深く共感を呼ぶのです。


サビで描かれる“信じたくなさ”と“現実”

静かに折り重ねられてきた感情の流れは、サビでわずかに揺れを伴って高まりを見せます。

「あなたが あなただけが こんなに 変わるなんて」

このフレーズは決して激しくはないのに、心の奥に残る衝撃は大きい。
なぜなら、まだ信じきれていない現実に触れてしまった瞬間の戸惑いだからです。

わずかな言葉のなかに、認めたくない変化への苦しさと、諦めきれない心の揺れが凝縮されています。


編曲に宿る“語らない感情”

アコースティックギターが語るもう一人の声

ふきのとうの音楽において、山木康世のアコースティックギターは単なる伴奏にとどまりません。
この曲でも、言葉にならない感情を、弦の震えや響きで語るように奏でられています。
その旋律には、沈黙のなかで心が揺れていることを、そっと伝えるような力があります。


ハーモニーではなく“独唱”を選んだ理由

ふきのとうの魅力のひとつは、山木と細坪による美しいハーモニーにあります。
しかしこの曲では、その象徴であるツインボーカルを封じ、細坪のソロボーカルだけで構成されています。

この選択は、非常に象徴的です。
というのも、この曲の主人公は、相手と心を通わせる段階を過ぎ、ひとりで静かに現実を受け入れようとしている人物です。

変わってしまった「あなた」を前に、ただ黙って立ち尽くす——
そんな孤独を描くには、“声を重ねる”ハーモニーより、“たった一人で歌う”ことのほうがずっとふさわしかったのかもしれません。


後半の歌詞に込められた静かな決意

“思い出としてしまう”という自己完結

終盤に差しかかると、主人公はある静かな決意にたどり着きます。

「あなただけの やさしさとして 帰らぬ 想い出として」

ここで歌われているのは、過去を完全に美化するのでも忘れるのでもなく、変わってしまった相手との時間を「やさしさ」として記憶の中にそっと仕舞いこもうとする試みです。

それは“許す”というより、“納得する”に近い境地。
問い続けてきた感情が、「了解」へと静かに移行していくこの場面は、相手との別れだけでなく、時間との折り合いをつけていく瞬間でもあります。


“やさしさ”という言葉に込められた多層性

タイトルにもなっている「やさしさとして 思い出として」という言葉は、きわめて多義的です。

やさしさとは何か。
それは相手に向ける思いやりであると同時に、自分の心を守るための選択でもあります。
たとえば、距離を置くことや、もう取り戻せない関係を静かに受け入れることも、ひとつの“やさしさ”かもしれません。

この曲における“やさしさ”とは、相手を責めないためというより、自分自身をこれ以上傷つけないための行為として描かれているように思えます。
その成熟した心情を、ふきのとうは過剰に説明することなく、最低限の言葉と音だけで伝えてくるのです。


“喪失”をどう歌うか:ふきのとうの方法

声を荒げないという選択

ふきのとうの音楽が、多くのフォーク系アーティストと一線を画す理由のひとつに、感情を過度に表現しない姿勢があります。
『やさしさとして思い出として』も、最初から最後まで、怒鳴るような激情はなく、静かな語りかけだけで物語が紡がれていきます。

この“声を荒げない”スタイルは、感情を抑圧しているのではなく、「誰かに伝える」よりも「自分の内側を整える」ことに重きを置いていると感じます。

恋愛の終わり、価値観のズレ、すれ違い。
これらを大きな事件としてではなく、日々の生活の中に静かに忍び込む“変化”として描く。
それがふきのとうの持つ“語らなさの美学”であり、この曲にも色濃く反映されているのです。


おわりに:あなたにとっての“やさしさ”とは

『やさしさとして思い出として』は、初めて聴いたときには地味に感じるかもしれません。
けれど、時間が経つにつれてじわじわと心に染み込み、気づけば記憶のなかで何度も再生されている——
そんな“静かな名曲”です。

誰かの変化をどう受け止めるのか。
過ぎ去ったものをどのように扱うのか。
かつて愛した相手の“今”を、どう捉えていくのか。

この曲は、それらの問いに対して、感情を爆発させることなく、一つの“静かな答え”を提示してくれます。

あなたにとっての“やさしさ”とは、どんなかたちですか?
そして、“思い出に変える”という行為は、果たして誰のためのものなのでしょうか。

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