■僕の勝手なBest10【ミッシェル・ポルナレフ編】・・・・プロフィール(歴史)はこちら!
🎸【ミッシェル・ポルナレフ編】第9位『おばあちゃんを殺したのは誰?』!
第9位はこの曲『Qui a tué grand’ maman?(おばあちゃんを殺したのは誰?)』です。
もちろん歌詞の意味はわかりませんが、メロディーと歌唱が切なくて好きでした。
🎥まずはいつものように、Youtubeの公式動画をご覧ください。
🎬 公式動画クレジット(公式音源)
曲名: Qui a tué grand' maman?
アーティスト: Michel Polnareff
© 1971 Semi / Meridian
提供: Universal Music Group
📖 2行解説
1971年に発表されたポルナレフの代表的なシャンソンの一つ。
死と喪失をテーマにしつつも、寓話的な響きをもつ独特の叙情性が特徴です。
なぜこの曲が「第9位」なのか──問いで駆動するポルナレフ
この曲の真ん中にあるのは、物語を語り切ることではなく、たった一つの問いを繰り返すことです。
タイトルそのままの問い「祖母を殺したのは誰?」がサビの核になり、続いて「それは“時”なのか、それとも“時間を持てない人間たち”なのか?」と畳みかける。

二段構えの問いは単なる疑問文を超えて、倫理・生活習慣・都市化批評へと一気に射程を広げます。歌は犯人探しのドラマではありません。問いが繰り返されるたびに、私たち自身の暮らし方や時間の使い方が浮かび上がる構造になっているのです。
ランキングで第9位に置いたのは、派手な名曲群のように“上位常連”ではないけれど、長く考える種を残し続けてくれる1曲だからです。
リフレインの設計と「時間」の二重性
サビは二種類の「時間」を重ねています。
ひとつは避けられない老いと推移としての時間。もうひとつは、忙しさの中で「時間を持てなくなった人間の時間」。
この二つを同じ問いの中に並べることで、「自然な変化」と「人間が作り出した欠乏」の両方が対比されます。聴く人は、責任を“時”だけに押し付けるのではなく、自分たちの生活様式にも目を向けざるを得なくなるのです。短い言葉の中でこれほど射程を広げる手際は、まさにポルナレフらしい鋭さです。
アルバム全体に漂う陰影
『Qui a tué grand’ maman?』が収められた1971年のアルバム『Polnareff’s』には、全体を通して独特の陰影が漂っています。
当時、ポルナレフと親交のあったラジオ局ディレクター リュシアン・モリスの死は彼に大きな衝撃を与えました。曲そのものが直接それを語っているわけではありませんが、“喪失”という感覚がアルバム全体を覆っているのは確かです。
その背景を踏まえて聴くと、この曲の問いかけは単なる社会批評にとどまらず、個人的な哀しみと重なる層を持って響きます。普遍的なテーマと個人的な体験が交差することで、楽曲にもう一段深い厚みが生まれているのです。

導入のイメージ──「庭」から「空虚」へ
冒頭で描かれるのは、祖母の庭に咲いていた花という穏やかな風景です。けれどもそれはすぐに「時が過ぎ、思い出だけが残り、手の中には何もない」という空虚さへと転じます。

庭=身近な生活圏、花=手間をかけて育まれる命の象徴、そして“手”=人が何かを保持し続ける力。
わずか数行で「具体的な景色」から「記憶」、そして「喪失」までを三段階で落差をつけて描き、その直後にサビの問いが返ってくる。この構造が、曲全体の強度を支えています。
ブルドーザーの比喩──都市化批評としての一節
この曲の中盤でひときわ印象的なのが、ブルドーザーの登場です。
祖母の庭に咲いていた花が工事の機械に置き換えられ、鳥たちがさえずる場所さえ工事現場に変わってしまう。
ここでは“祖母”という存在が、単なる個人ではなく、暮らしの質や地域の記憶、自然の秩序そのものを背負ったメタファーへと広がります。
開発の力を「犯人」と名指ししつつ、それを推し進めてきた人間社会そのものが問い直される。繰り返されるサビの問いは、聴き手に責任を外部化させず、自分自身の立場を見つめ直させる仕掛けになっています。

メロディと語感の一致
サビの冒頭
「祖母を殺したのは誰?」というフレーズは、声のわずかな持ち上がりに合わせて旋律が動きます。誇張された高低差はなく、言葉のアクセントに寄り添う自然なライン。これによって問いかけは“歌”であると同時に“セリフ”のような生々しさを持ちます。
和声の往復
歌全体は落ち着いた和声で進み、サビで一瞬だけ視界が開けます。しかしすぐに基底に戻り、また静けさに収まる。この往復運動は「記憶と現実を行き来する感覚」を思わせ、歌詞の世界観と重なり合います。

アレンジの役割分担
- ピアノは曲の骨格を支え、短い装飾で柔らかさを添える。
- ストリングスは中域の厚みを加え、荘重さを演出する。
- 打楽器は極力抑えられ、言葉の通り道を空ける役割に徹する。
特にサビ直前で訪れるわずかな静けさは、聴き手に強い印象を残します。音が一瞬薄くなることで、その後の問いが鋭く浮かび上がる。派手なブレイクではなく、息をのむ一拍の間が説得力を高めているのです。
録音の手触りと声の存在感
ピアノは硬すぎないタッチで響きを整え、減衰の余韻が曲の空気を支えます。
ストリングスは高域を抑え、中域の厚みで落ち着きを作る。声は子音の輪郭をきちんと残す発声で処理され、余計な装飾に頼らず言葉を前に押し出しています。
そのため、ブルドーザーや工事現場といった象徴的なイメージも、音の厚みに埋もれず、はっきりと前に出てくる。残響は中庸で、サビの直前にはふっと薄まる処理が施され、問いが突き刺さる瞬間を引き立てています。

同時代の文脈──1971年という背景
1971年のフランスは、戦後復興を経て都市再開発が急速に進んでいた時代でした。
ブルドーザーが街並みを塗り替え、自然の静けさや地域の記憶が次々と失われていく。そうした現実を背景に聴くと、この曲の問いかけは単なる比喩を越え、暮らしそのものを組み替えてしまった社会の変化を射抜いていることが分かります。

持続的な機械音が生活のリズムを覆い、日常の中にあった「小さな時間の余白」が消えていく。その変化を批評的に捉えたからこそ、この歌は時代を超えて生き続ける力を持つのです。
リスニング・ガイド──聞き取りと体験の工夫
フランス語の聞き取り
サビ部分はリエゾンが多く、最初は輪郭がつかみにくいかもしれません。訳を見ずに全体を一度聴き、その後にサビのフレーズを軸にして聴き直すと、「二重の問い」が音楽的にどう響いているかがより鮮明に感じられます。

再生環境の工夫
- スピーカーで聴くと、弦の重なりやピアノの立ち上がりが見えやすい。
- イヤホンで聴くと、声の細やかな抑揚や、サビ前の“空気が薄くなる瞬間”を捉えやすい。
環境を切り替えるだけで問いの角度が変わり、同じ曲でも新たな発見があります。
第9位に据えた意味
この曲を第9位に選んだのは、単に「名曲だから」という理由ではありません。
感情を共有するのではなく、一本の問いを繰り返すことで責任の所在を考えさせる構造。個人の想いを超えて、都市開発や価値観の転換といった社会的な次元にまで視線を広げている点。そして、ピアノと弦を中心に据えた抑制的なサウンドが比喩の重みをまっすぐ届ける点。
さらに、聴くたびに同じ問いが同じ角度で響くため、時間をかけて熟成されるように何度も考え直させられる仕組みも備えています。こうした要素が重なり、『Qui a tué grand’ maman?』は一過性のヒット曲ではなく、今なお問い続ける歌として存在し続けているのです。(正直、中々僕のような凡人には理解できないところでもあります)
だからこそ、ポルナレフの数ある楽曲の中でも特別な重みを持つ作品として、私のランキングでは第9位に据えました。(;”∀”)
まとめ──問いを残す歌の力
『Qui a tué grand’ maman?』は物語を説明する歌ではなく、一本の問いを反復することで進んでいきます。
その問いが「時間」と「人間」の責任を同じ舞台に置き、聴き手の生活や価値観を揺さぶる。
華やかなポップ・ソングが並ぶ時代にあって、この曲は静けさの中に批評性を宿し、今もなお聴き直すたびに新しい発見を与えてくれるのです。

『おばあちゃんを殺したのは誰? Qui a tué grand' maman?』―:意訳!
かつて祖母の庭には花が咲き、
静かな時が流れていた。
枝には葉が茂り、
葉には鳥がとまり、
その歌声が世界を満たしていた。
だが今や時は過ぎ去り、
人々の手には何も残らない。
祖母を奪ったのは時なのか、
それとも時を忘れた人間なのか。
ブルドーザーが花を砕き、
歌う鳥たちの居場所を奪った。
響くのはただ工事の音だけ。
それで私たちは泣いているのだろうか。
失われたものを問いかける refrain が、
今も胸の奥で繰り返される。
コメント