僕の勝手なBest30:【ふきのとう】編-第14位『街はひたすら』をご紹介!

「ふきのとう」の歴史はこちら
歴史【前編】「出会い~デビュー〜初期成功~成長期」まで(1970〜1976)
■歴史【後編】1977年〜解散・現在までの「円熟期・終幕・再会」

はじめに ― 心象風景を描く音のシネマトグラフ

僕の勝手なBest30「ふきのう編」も半分を過ぎました。今日は14位「街はひたすら」を紹介します。

1970年代後半、フォークデュオ「ふきのとう」は、世の潮流とは異なるペースで、独自の情景と語り口を積み上げてきました。山木康世の旋律には深みのある輪郭があり、細坪基佳の声には硬質さとやわらかさが同居しています。それらが交差することで、聴く人の中に眠っていた感情や記憶の輪郭がゆっくりと浮かび上がってくるのです。

1976年のアルバム『風待茶房』に収められた『街はひたすら』は、一聴して耳を奪うような派手さはありません。しかし、この曲は静かな語りの中に、誰の心にも宿る“ある季節の時間”を内包しています。そこには、表面をなぞる言葉ではなく、沈黙の中に託された物語が潜んでいるのです。

まずはYoutube動画から紹介しましょう。

下の画像をクリックしてください。Youtube動画『街はひたすら』にリンクしています
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🎥 出典:YouTube「Fukino10 Chan-nel」チャンネルより  
動画タイトル: ふきのとう/街はひたすら
作詞・作曲:山木康世 編曲:瀬尾一三
公開年:  2014/11/12
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街の輪郭と人物の気配

ギターが描く季節の肌ざわり

曲は、乾いた空気を思わせるギターの旋律で始まります。冷え込みの増す季節、舗道に落ちた葉、肌に触れる風の温度。これらが言葉にされる前に、すでに音だけで提示されています。楽器の音そのものが風景の一部として機能し、リスナーの記憶にある似たような景色を呼び起こします。

音の始まりとともに描かれるのは、都市の静けさではなく、あくまで生活の中にある一瞬の空白。その静寂の中に、どこか懐かしい冷たさや、人の気配がにじんでくるような印象があるのです。

視点の移動と“ひとり”の実感

歌が進むにつれ、風景の中にひとりの人物が現れます。群衆の中に身を置いているはずなのに、どこか孤立しているようなその人の姿。街を歩く足音、すれ違う人々、信号の点滅。そんな日常の断片の中で、「気づけば自分はひとりだった」という感覚がふいに浮上してきます。

ここでの印象は、感情を押し出すものではなく、むしろ無表情に近いものです。自分の置かれた状況に対する驚きや悲しみはなく、ただ「事実」として目の前に立ち上がる孤独。その静けさは、かえって鮮やかにその感情の存在を刻みつけます。


記憶の奥に降る“雨”の意味

閉じた空間での再構成

楽曲の中盤、場面は街から室内へと移行します。人混みの中から離れた主人公は、過去の別れに思いを巡らせています。周囲の喧騒は消え去り、目の前にあるのは静まり返った空間。ひとりきりの時間の中で、自身の記憶と向き合う瞬間が訪れます。

ここでは描写のトーンも変化します。外では風や人の流れが描かれていたのに対し、今は机にこぼれた涙や、黙って耳を傾ける「雨音」といった、ごく個人的なディテールが中心に据えられています。

雨音という象徴的存在

この「雨音」は、単に降っている雨の音を意味しているわけではありません。むしろ、心の中に鳴り続ける記憶の響き、あるいは過去に触れたときに生じる小さな動揺のようなものです。外界の雨と内面の揺れが交差し、音を通じてふたつの世界がつながる場面といえるでしょう。

このような表現は、ふきのとうの特徴でもあります。風景と心象を明確に区別せず、それぞれが自然に重なり合う形で描かれる。まさにこの部分に、彼らの音楽の静かな強度が宿っています。

音による心の深層描写

中盤から後半にかけて、ストリングスがそっと重なり、音の空間に厚みが加わります。ただし、ここでも演出はきわめて抑制的です。旋律が主張するのではなく、感情の背景として機能し、心の動きをうっすらと彩っていきます。


出会いと別れの構造に宿る哲学

めぐり逢いと「曲がり角」の寓意

曲の後半で印象的なのは、「人は出会っても、どこかで手を振り、またひとりになる」というモチーフの繰り返しです。この一節が示しているのは、単なる失恋や別れの情景ではなく、人生全体に通じる普遍的な構造です。

「曲がり角」という比喩は、ただの物理的な道の分岐ではありません。それは、選択・転機・価値観の違い、あるいは時間そのものが生み出す距離を意味しています。どれだけ深く関わった人同士でも、いつかは視界から消える。そんな宿命的とも言える運命が、冷静な口調で語られていくのです。

この描き方に、ふきのとうの美学が凝縮されています。感傷を引きずるのではなく、それを前提としたうえで、それでも人は歩き続けるという姿勢。その哲学的な視点が、作品全体に一本筋を通しています。

反復によって生まれる変化

後半では、「ひとりぼっち」という言葉が何度も繰り返されます。同じ言葉が重ねられているにもかかわらず、その響きは毎回少しずつ異なります。

最初は気づいたばかりの孤独。次に、それを反芻する記憶。そして最後には、それを受け入れた上で静かに前を向く感覚。

言い換えるならば、同じ言葉を使いながらも、語る主体が少しずつ変わっているのです。初めは現在の自分が語り、次には過去の自分が語り、最後にはそれらすべてを俯瞰している“もう一人の自分”が語っているかのよう。こうした多層的な視点が、聴き手の内面にも自然と移植されていきます。


『街はひたすら』が示す場所

静かな楽曲の中にある転換点

『街はひたすら』が収録されたアルバム『風待茶房』は、ふきのとうにとって音楽的な節目でもありました。初期のフォーク色の濃い作品群から、より音の厚みや洗練を意識したニューミュージックへの橋渡しとも言える時期。この曲はその流れの中に位置しています。(僕もふきのとうのアルバムの中で、「風待茶房」を一番聴きこみました!!)

楽曲構成の面でも、ギターだけで進行するフォーク的な質感を持ちながら、ストリングスや空間的なアレンジが施されており、以降の『風来坊』や『春雷』といった名曲への予兆を感じさせます。

また、山木康世のメロディには既に「語りかけるような歌」から「風景を描く音楽」へのシフトが見られ、細坪基佳の歌声にも内面的な響きの深さが増してきた時期と重なります。派手な進化ではないけれど、確実に前進している。そんな変化の証として、この曲は記憶されるべき作品です。

四畳半フォークからの脱却

当時のフォークシーンでは、「内省的=四畳半フォーク」というイメージが定着しつつありましたが、『街はひたすら』は、そうした分類から一歩抜け出す作品でもあります。語り手が特定の“私”であると同時に、“誰にでも起こりうる日常”の中で語っていることが、この作品の普遍性を支えています。


静けさの中で浮かび上がる“強さ”

現代における「ひとり」の再解釈

インターネットやSNSを通じて、常に誰かとつながっていることが前提とされる現代において、「ひとりである時間」は以前よりも希少で、ある意味で贅沢なものになりつつあります。

情緒と構造の絶妙な配置

俯瞰から始まる視点の移動、記憶の内側への沈降、そして反復の中での感情の転化。それらが一本の糸のようにつながりながら、聴き終わった後に“心のどこかが動いていたこと”に気づかされる。感情の高まりを演出するのではなく、「残る感覚」こそが作品の力なのです。


おわりに ―「街はひたすら」を、もう一度

この楽曲を初めて聴いたとき、多くの人が「ああ、こういう時が自分にもあったな」と感じるはずです。そして何度も聴くうちに、その“ひとりぼっち”の意味が少しずつ変化していくことにも気づくでしょう。

はじめは寂しさとして、次に記憶として、最後には生きていく上での一部として――。

『街はひたすら』は、人生の断面を静かに映し出す鏡のような楽曲です。そこに映るものは人それぞれ異なりますが、共通しているのは、“誰もが一度はこの道を通る”ということです。

この曲が描いているのは、特別な人間の特別な時間ではありませんごくありふれた街、日常の足取り、そしてふとした心の揺れ。それこそが人生の核心であり、私たちが生きていく上で避けて通れない時間なのです。

そして、そんな時間を歌にして届けてくれる音楽が、ここにあるという事実――それ自体が、今を生きる私たちへのささやかな贈り物なのかもしれません。


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